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常設

 
展示情報(常設) >> 記事詳細

2004/12/01

常設展  平成16年12月~平成17年4月

| by システム担当者
展示期間

平成16年12月1日水曜日 から 平成17年4月20日木曜日

三重県立図書館
所在地 514-0061三重県津市一身田上津部田1234番地
電話 059-233-1180
ご意見・ご感想は電子メールで mie-lib@milai.pref.mie.jp まで

松尾芭蕉

1644年(寛永21)6月3日~1694年(元禄7)10月12日 伊賀国上野(現伊賀市上野赤坂町)出身 
(一説に伊賀市柘植とも) 俳人

松尾与左衛門の次男で、幼名を金作、長じて甚七郎、忠右衛門と称す。元服後、宗房(むねふさ)と名乗り、また宗房(そうぼう)と音読して俳号にも使った。若いころ、藤堂藩の良忠に仕えたが、良忠が病死したのを機に仕官を断念した。
1672年(寛文12)、29歳の芭蕉は、上野天満宮に処女作『貝おほひ』を奉納し、俳諧師として世に立つべく江戸に下る。37歳の時、深川に住み、翌年、庭前の芭蕉の株にちなんで「芭蕉庵」と称した。 
1864年(貞享1)、41歳の8月、『野ざらし紀行』の旅に出発、以降10年間、51歳の死に至るまで、そのほとんどを旅で過ごす。
紀行文としては、『笈(おい)の小文』『更科紀行』『おくのほそ道』がある。また、芭蕉のかかわった俳書としては、『冬の日』『春の日』『曠野(あらの)』『ひさご』『猿蓑(さるみの)』『炭俵』『続猿蓑』があり、これらは『俳諧七部集』と呼ばれている。 
芭蕉の俳諧は、日本の中世以来の文学の伝統を継承し、それを広く庶民文学の中に生かすとともに、さらに新しく、より深く発展させたものといえよう。「さび」「かるみ」などは、いずれも和歌や連歌などが理想とした美的理念を、俳諧の庶民性の中にあらわしたものである。 
芭蕉は51歳の冬、大阪で永遠の旅につく。墓地は近江の義仲寺にあり、また、伊賀上野の愛染院には、遺髪を納めた「故郷塚」がある。

展示品解説

  1. 掛軸 発句自画賛あかあかと 日はつれなくも 秋の風    はせを
    『おくのほそ道』(元禄15・1702刊)所収。金沢に向かう道中での「途中吟」。落款は「鳳尾」「風羅」。原資料は天理大学図書館蔵。複製。
  2. 掛軸 発句 懐紙無常迅束(じんそく)/頓(やが)て死ぬ けしきもみえす 蝉のこゑ    芭蕉桃青北枝編『卯辰集』(元禄4・1691刊)所収。同年刊の『猿蓑』巻二には「頓て死ぬ けしきは見えす 蝉の声」とある。落款は「芭蕉」「桃青」。原資料は個人蔵。複製。
  3. 『奥の細道』(元禄5・1692頃執筆) 寛政元・1789刊 井筒屋庄兵衛 再板
    「あかあかと 日は難面も あきの風」は、金沢へ向う7月半ばの発句。旧暦では秋の初めにあたる。
  4. 『泊舩集』風国編 元禄11・1698刊 井筒屋庄兵衛板
    芭蕉の遺稿・遺詠を集めた〈編集物〉としては最初のもの。巻一に「野ざらし紀行」を「芭蕉翁道の紀」と題して初めて出版、巻二~巻五は「芭蕉庵拾遺稿」と題して芭蕉の発句を、巻六には芭蕉・門人等の発句を「追加となし」て収めている。  「頓て死ぬ けしきも見えす 蝉の声」(巻三)
  5. 『俳諧七部集 三 猿蓑』井筒屋庄兵衛板
    『猿蓑』は去来・凡兆編、元禄4・1691成立。巻一~巻四は発句、巻五には歌仙、巻六には芭蕉「幻住庵記」等を収める。
     「頓て死ぬ けしきは見えす 蝉の声」(巻二)
  6. 『俳人百家撰 全』緑亭川柳 編・雄斎国輝 図  嘉永8・1855刊 和泉屋市兵衛板
    編者自序に「只古をしのぶ心もて遂に俳人百撰とはなしぬ」とある。三重県関係の俳人としては、松尾芭蕉・荒木田守武・大淀三千風・中川乙由の他、高島玄札・杉田望一・太白堂桃隣・園女・猩々庵といった名が見える。
松尾芭蕉松尾芭蕉
荒木田守武荒木田守武
大淀三千風大淀三千風
中川乙由中川乙由
高島玄札高島玄札
杉田望一杉田望一
太白堂桃隣太白堂桃隣
園女園女
猩々庵猩々庵

三重の国学・和歌

松阪の本居宣長(もとおりのりなが)は、古典研究と国学思想の大成者として、近世を代表する学者の一人である。その私塾鈴屋(すずのや)には全国から多くの俊秀が集い、すぐれた国学者を輩出した。宣長の没後も、その学問は長男春庭(はるにわ)・養嗣子大平(おおひら)へと受け継がれていく中で、急速に庶民層に浸透し、全県域に拡大していった。しかし、三重の国学の発展には、内宮神官荒木田久老(あらきだひさおゆ)及びその一門の活躍が一方にあり、中南勢を中心に多くの門人を擁したことも見逃せない。 
近世後期には久老門で春庭・大平にも学んだ山田の足代弘訓(あじろひろのり)が寛居(ゆたい)塾を主宰、その学頭となった佐々木弘綱(ひろつな)は石薬師に竹柏園(なぎぞの/梛園)という私塾を開き、それぞれに精力的に活動を展開、その影響を県内全域に及ぼしている。また、和歌山の出身で、同じく春庭・大平の門人となった桑名の富樫(鬼島)広蔭(ひろかげ)は言幸舎(ことさちのや)という私塾を開き、東海道を中心に諸国に多くの門人を擁した。 
三重の国学者としては、他に、山崎闇斎(あんさい)の垂加神道(すいかしんとう)の影響を受け、上記国学者たちとは異なる立場で古典・語学研究の成果をあげた谷川士清(ことすが)や、独自の学問を築いた黒沢翁満(くろさわおきなまろ)、橘守部(たちばなのもりべ)など枚挙に暇がない。 
なお三重の和歌は近世中期以降は国学者を中心として隆盛をみるが、その濫觴(らんしょう)は伊勢神宮内宮神官の伝統的文芸としての神宮法楽和歌など、神宮を中心とする盛んな活動と影響も看過できない。

(『三重県史 資料編』近世5 による)

展示品解説

  1. 本居宣長 和歌短冊しきしまの やまと心を 人とはゝ/朝日にゝほふ 山さくらはな    宣長
    本居宣長 (享保15・1730~享和元・1801)は国学者・医師。松坂の商家に生まれ、のち、紀州藩に仕える。国学の大成者。
  2. 橘守部 和歌短冊山家/山さとに ひとりつくつく たのしきは/ありしみやこの 手ふり成けり    守部
    橘守部 (天明元・1781~嘉永2・1849)は国学者。三重郡朝日町に生まれる。のち、江戸に出、「天保の四大家」に数えられる。
  3. 黒澤翁満 和歌短冊ゆきの/中のうめ/いかならむ 春のみのりは よしやあしや/まつめつらしき 雪のうめかゝ    翁満
    黒澤翁満 (寛政7・1795~安政6・1859)は国学者・桑名松平藩士。のち、藩主に従って武州に移り、大坂で没する。
  4. 大田垣蓮月 和歌短冊紅葉の/ちり/けるを/みて/おほそらに たか手向つる ぬさならん/かせも紅葉の いろになるまて    蓮月
    大田垣蓮月(れんげつ) (寛政3・1791~明治8・1875)は伊賀上野藩老藤堂某の娘。京都知恩院で尼となったのち、和歌・陶芸で名を知られる。
  5. 本居大平 書簡服部三郎右衛門(時方)宛
    本居三四右衛門大平は本居宣長の養嗣子。服部時方は服部中庸(なかつね)(宣長の門人で『三大考』の著者)の養子。手紙文中「水月翁」は中庸の号。「兵馬」は大平の次男清島(きよしま)。
    猶々已来添状の儀 状重々相成候故/御互に無用仕度候 必々御用捨可被下候
    先達ては御状被下 辱致拝読候
    残暑の節 弥御揃御清栄に
    可被成 御重奉賀候 然は
    水月翁より御状一 御届申上候 御落
    手可被下候
    一 毎々乍御世話 本町迄別封
    一通 為御届可被下候様 奉希候
    先は右御頼申上度 如此届候 早々 以上
    八月十日     本居三四右衛門/兵馬
    服部三郎右衛門様
  6. 黒澤翁満著『源氏百人一首湖月抄』 松軒田靖 書・棔斎清福 画 天保10・1839刊 金花堂 初版黒澤翁満が『源氏物語』の登場人物123人について、その詠んだ和歌を各々1首ずつ選び、易しい解説を加えた本。橘守部らが序を書いている。
  7. 大田垣蓮月・高畠式部著『蓮月 式部 二女和歌集』 明治元・1868刊 金屏堂大田垣蓮月と高畠式部(天明5・1785~明治14・1881)二人の和歌99首を、「四季・恋・雑」の6部に収めた歌集。高畠式部は松阪に生まれ、千種有功・香川景樹等に和歌を学んだ歌人。二人は当時、代表的女流歌人として並び称された。なお、この作品は『現代短歌体系 第1巻』(昭和27 河出書房)に翻刻されている。

佐々木弘綱  (1828~1891)

掛軸竹をめつる詞

佐々木弘綱(文政11・1828~明治24・1891)は、本居春庭・大平の弟子であった足代弘訓に教えを受けた国学者・歌人で、佐佐木信綱の父。藤堂藩藩校・有造館や帝国大学などで教鞭をとり、国文学研究・和歌の分野で業績を残した。

竹をめつる詞

草木にめてたきかあまたある中に 木にもあらす艸にもあらぬと昔人のいひし竹なん
ことにめてたき まつ鶯の寝坐をしめて暁を覚えぬ比の眠をさまし 目をつゝらかに
囀り出たる いひしらすのどけし 夏は生出たる子の見ることにすくすくとのひゆくさまのみかは
葉分の風の清くすゝしき 秋は葉こしの月のもとさへひかりて いとさやかなるに かくや
姫のおひいてしさまもかくや といとをかし 冬は雪にたわみたるけしきはいふへくもあらす 夜
折の声はいとあはれなり かくひとゝせなからけいきいとめてたけれは 唐倭の人のなへてめて
たきためしにいひよすなるは けにさる事にて 年ことに生そはりしけりもてゆくは
うからやからのときはかきはにさかえゆくさまにたゝへつへくなむ あなめてたの
竹や あなめてたのすかたや

伊勢の国人  佐々木弘綱

佐佐木信綱

1872年(明治5)6月3日~1963年(昭和38)12月2日
鈴鹿郡石薬師村(現鈴鹿市石薬師町)出身
歌人 国文学者

1888年(明治21)帝国大学(現東京大学)古典科卒業後、父弘綱の志を継ぎ、作歌及び後進育成に当るとともに、歌学研究と著作活動を通じて、歌壇・学界に多大な貢献をした。 
歌人としては、1898年(明治31)、門人組織「竹柏会」の機関誌『心の華』(のち『心の花』)を創刊、短歌革新運動に加わり、「ひろく、ふかく、おのがじしに」をモットーとした。1903年(明治36)、歌集『思草(おもいぐさ)』により、新派歌人・信綱の名が広まった。
  
願はくは われ春風に 身をなして 憂ある人の 門をとはゞや

は歌人としての抱負を詠んだものである。主情的で温雅平明な調べは、三重の風土に培われた信綱の人柄と歌風を象徴していよう。歌集は『新月』『常盤木(ときわぎ)』『豊旗雲(とよはたぐも)』『鶯』など、全部で12冊ある。ほかに、文部省唱歌「夏は来ぬ」の作詞者としても知られる。 
国文学者としては、古典の翻刻・活字本による刊行など、古典普及につとめた功績が大きい。1925年(大正14)には、『校本万葉集』全25巻を完成し、以後の万葉研究に恩恵を施した。『日本歌学史』『和歌史の研究』『近世和歌史』は、和歌・歌学・歌謡研究の成果である。 
一方では、生涯にわたって郷土三重の文化振興のため援助を惜しまなかった。生家は鈴鹿市に寄贈され、隣接の佐佐木信綱記念館とともに公開されている。

展示品解説

  1. 色紙 短歌人の世に よき春来る 喜の 光もたらし よき春来る    信綱『常盤木』(『佐佐木信綱歌集』)所収
  2. 色紙 短歌鴨の群 羽音はげしう 海にゆく 林のうへの 有明の月    信綱『新月』(大正元・1912刊)所収
  3. 書簡斎藤輝子宛昭和28年12月1日
    斎藤輝子氏は斎藤茂吉夫人。袱紗の贈り物や、自分の著書(『ある老歌人の思ひ出』(昭和28年・1953年)刊)の感想等が書かれた手紙に対する礼状。
    斎藤夫人御許           佐佐木信綱
    山庭はみかんのいろうつくしく候 此ほとは御状忝く/拝見候 間島刀自御祝の茶会に御出席との御事 さた/めて御喜と存上候 当方は東京会館にまゐり候 写真/御らん下され候よし 百余人の盛会に候ひき/老歌人の思ひ出御覧下され候との御事 斎藤様の/思出猶いろいろ有之 御しのび申上候事に候/アララギよりうるはしきふくさいたゞき画をあのやう/に立派に御ゑかきの事ははじめて承知いたし候 さんさくに/御画御願申さばよろしかりしにとしのび上候事に候/延引ながら御請まで 早々 十二月一日
  4. 著書『わが文わが歌』昭和22(1947)年 六興出版部 初版
    随筆と旅の歌を中心とした自選歌集。「松坂の一夜」「本居宣長の母」「孝子万吉碑」「伊勢石薬師村」など、三重県に関する小文も見える。
  5. 著書『明治大正昭和の人々』昭和36(1961)年 新樹社 初版
    自序に「明治のよき時代に生れて、幸に今年数へ年九十の齢を迎へた自分は、多くのよき人々を知る好機会に恵まれた」とある。250余名の中に、三重県関係では、本居豊穎・斎藤緑雨・松本幸四郎・尾崎行雄・松浦武四郎・御木本幸吉・高畠式部・橘糸重らの名が見える。
  6. 編書『標註 七種百人一首 全』明治26(1893)年 博文館 初版
    「小倉百人一首(藤原定家撰)」の他、「新(足利義尚撰)」「後撰(二条良基撰)」「続(佐々木弘綱撰)」「近世(佐佐木信綱撰)」「源氏(黒沢翁満撰)」「修身(佐佐木信綱撰)」の六つの「百人一首」を収める。

丹羽文雄

1904年(明治37)11月22日 ~ 2005年(平成17年)4月20日 四日市市出身  小説家

四日市の真宗高田派の末寺崇顕(そうけん)寺の長男として生まれる。4歳の時、母が旅役者と出奔する。このことが、作品のモデルだけでなく女性観にも深い影響を与えた。
富田中学校(現四日市高校)卒業後、文学を志し、早稲田大学第一高等学院、同大学国文科へと進む。在学中から同人誌に多くの作品を発表し、寺崎浩、火野葦平らを知る。卒業後も半年程東京に残るが、志半ばで帰郷、僧侶生活に入る。しかし、文学への未練断ち難く、永井龍男の勧めで書いた「鮎」(1932)が好評だったこともあり、これを機会に再度上京する。上京後、 「贅肉」の“生母もの"や「海面」の“マダムもの"という系列の愛欲の世界を鋭く描いた作品を発表して注目され、流行作家となる。戦時中は報道班員として、「還らぬ中隊」などの“戦記もの"を発表。戦後は、愛欲を中心とした「鬼子母神界隈」などの風俗小説を多く発表した。しかし、中村光夫との風俗小説論争後、「幸福への距離」などの“実験小説"を試みるように なった。「厭がらせの年齢」は今日的問題を含み、評判をよんだ。1953年(昭和28)発表の「青麦」で父親を書き、父親を考えることから宗教を真正面からとらえるようになった。そして、親鸞の思想をテーマとした“宗教小説"(「親鸞」「蓮如」)へと進んだ。
他方、個人誌『文学者』を刊行し、新人の育成に努めた。四日市市立図書館には「丹羽文雄記念室」が設置されて、多くの資料が集められている。 

展示品解説

  1. 原稿「自然」(200字詰原稿12枚)
    初出不明。『新居』(昭和11・1936 信正社)収録の「自然描写について」と内容がほぼ重複するが、字数はその約2倍。小説における自然描写の重要性を述べている。「自然描写について」が抽象的であるのに比べ、本稿は、横光利一や志賀直哉などの名を挙げて、より具体的に述べている点に特徴がある。
  2. 色紙「丹羽君の像」似顔絵と自筆讃
    墨による似顔絵の署名は「凡」か。不明。 讃は丹羽文雄の自筆。
    「我が顔も かほどまでとは 知らさりき/目と眉毛の 八の字あはれ    文雄」
  3. 著書『海戦』昭和17・1942刊 中央公論社 初版
    丹羽が海軍報道班員として従軍、巡洋艦鳥海に乗り、同年8月に体験した「第1次ソロモン海戦」を描いた戦記小説。丹羽のいた艦橋に敵弾が当り、丹羽は負傷したが、内地へ帰還できた。本作は第2回中央公論社文芸賞を受賞。装幀は中村研一。後年、『創作の秘密』(昭和51・1976 講談社)の中で丹羽は、軍部により削除を受けた箇所があった事や、戦中・戦後に受けた不当な批評等に触れつつ、本作品を「見なければならないものにおびえたり、戦慄したり、目を蔽ったりするものではな」い「私の散文精神」の表われ、としている。
  4. 著書『ソロモン海戦』康徳10・1943刊 国民画報社 初版
    『海戦』の、満州国での版。内表紙に「駐満海軍武官府検閲済」とある。表題作の他、「艦内生活の断片」「ラバウルの生態」「海戦」等、9編を収めている。
  5. 作品収録雑誌『少女クラブ』昭和21年9月号 講談社
    同誌は少女向け月刊誌。丹羽文雄作「黒猫」を載せている。田舎に引越してきた10歳の少女の黒猫に対する思いを描いた短篇小説。挿絵は向井潤吉。
    本誌には他に、北園克衛の詩「詩人の家」・生方たつゑの短歌「あこがれ」等を収録している。

田村泰次郎

1911年(明治44)11月30日~1983年(昭和58)11月2日  四日市市出身  小説家

1929年(昭和4)、富田中学校(現四日市高校)卒業後、早稲田大学第二高等学院に入学。更に同大学大学部仏文科に進む。高等学院二年生の時、学友と同人誌『東京派』を創刊。創刊号に「意識の流れ統整論」というジョイスの「ユリシーズ」の手法に関連した評論を書く。また、大学卒業直前に『新潮』からの注文を受け、卒業論文には力を入れずに「選手」を書く。そのため、教授会で田村の卒業が問題にされるという「事件」を起こしたりした。この作品は少年剣士たちの烈しい練習と快い疲労とに明け暮れる生活の哀歓を描いたものである。 
1940年(昭和15)4月、応召し、久居の第33連隊に入営する。いったん、除隊の後、同年11月、再応召し、中国山西省遼県の分哨陣地に一兵卒として任に着き、その後、敗戦まで戦場を転々とする。 
敗戦後、溜まりに溜まったものを吐き出すかの如き活動が始められる。中国人女性捕虜と一兵士との恋愛を主題とした「肉体の悪魔」、有楽町辺りのパンパンガールと呼ばれた街娼たちを描いた「肉体の門」により、田村のその当時の作品は肉体文学と呼ばれるようになった。これらの作品は、「肉体の門」を例にとれば、劇化されて1000回に及んで上演されるなど、文学の枠を越えて人々に迎えられた。
なお、当館は夫人から寄贈された著書を含む全資料約9,000点を所蔵しており、閲覧もできる。 

全資料

展示品解説

  1. 原稿「豊田三郎への手紙」昭和10年頃
    豊田三郎は小説家。「文芸通信」は昭和8年から12年にかけて発刊された文芸雑誌。この文章は、豊田が同誌に発表した評論に対して書かれた小論である。この中で田村は、「映画や通俗大衆文学を一言の下に否定する」「横着で古い文人気質」が「純文学を今日の始末にしてしまった」とし、「貪婪に、逞しく生きるために文学をやる」態度を主張している。
  2. 葉書 東京・森谷均宛 昭和15年5月17日付 歩兵33連隊(久居)配属時
    田村の応召は同年4月末。この時は3ヵ月間の訓練の後、一旦帰京する。文中、「河田の詩集」とは、学友で、共に同人雑誌「東京派」を創刊し、昭和9年に亡くなった河田誠一の遺作『河田誠一詩集』のこと。装幀は草野心平が担当した。
    わざわざ御兄より頂き有難く存じ/ます。折角御近づきになりながら、突然応/召し残念です。幸ひ元気でやつてゐます故/御安心下さい。河田の詩集は、草野君と、河田/井上友一郎君とに宜敷頼んで来ました。/どうか宜敷御願ひ申上げます。毎日辛い 演習で手紙を書くひまもありません。また/いつか帰京出来る日を楽しみにして/ゐます。東京はもうセルの季節でせう。/ 御健在にて。         草々
  3. 作品 裸婦 レリーフ 鉄製ペーパーウェイト 草野心平 箱書
    美術家たちとの交流も深く、一時期は画廊も開業するほど美術を愛した田村は、自らも美術制作に携わり、個展も何度か開催している。
    詩人・草野心平との交友は学生時代以来である。
  4. 作品収録雑誌『会誌 第36号』昭和4・1929刊 三重県立富田中学校校友会
    当時最上級生であった田村泰次郎は、「文苑」に「Marcus Aureliusとの対談」、「紀行」に「第二回諸兵連合演習に参加して」、「剣道部々報」に「追懐」(共著)を載せている。「部報」の中では「我が部の覇将」「北勢の白袴」と形容されており、その活躍ぶりが窺える。

山口誓子

1901年(明治34)11月3日~1994年(平成6)3月26日  四日市市および鈴鹿市に12年間在住  俳人

京都市上京区岡崎町に生まれる。京大三高時代に「暑さにだれし指悉く折り鳴らす」が『ホトトギス』に初入選、その感覚性のゆえに世人を瞠目させた。東京大学法学部の時に、水原秋桜子(みずはらしゅうおうし)らとともに直接高浜虚子の指導を受けた。ホトトギス派からはは、誓子・秋桜子・高野素十(たかのすじゅう)・阿波野青畝(あわのせいほ)が出て“四S時代”を作った。大学卒業後、大阪住友合資会社に入社。
1941年(昭和16)9月、肋膜炎の療養のため四日市市富田に移住した。その後、1946年(昭和21)四日市市天ヶ須賀海岸、1948年(昭和23)鈴鹿市白子町鼓ヶ浦へと伊勢湾沿いの地を転々とする。1953年(昭和28)年10月に三重県を離れるまで、その間の句を収めたものとして、『七曜』(1942)『激浪』(1946)『遠星』(1947)『晩刻』(1948)『青女』(1951)『和服』(1955)の6冊がある。 
誓子の主張する「感動は物から受けたひらめきだ。感動のひらめきは『物と我』とが一つになった状態」という境地は、この北伊勢の自然風土を自らと一体化できるものとして凝視しつづけた中から生まれた。そ の全生涯の中で最も充実かつ成熟した時期であった。 
1948年(昭和23)には、主宰誌『天狼』を創刊し、「根源俳句」を提唱した。 
波に乗り 波に乗り鵜の さみしさは 
露更けし 星座ぎっしり 死すべからず 
つきぬけて 天上の紺 曼珠沙華

展示品解説

  1. 色紙 俳句せりせりと 薄氷(うすらひ)杖の なすまゝに    誓子 『遠星』(昭和22・1947刊 創元社)所収。季語は「薄氷」、季節は春。
  2. 短冊 俳句麗しき 春の七曜 またはじまる    誓子 『七曜』(昭和16・1941刊 三省堂)所収。季語は「春」。「七曜」とは、「一週」の意。誓子は後年「自句自解」(昭和49・1974刊『鑑賞の書』所収)の中で、この句について、「麗しき春の、七曜と七曜との継ぎ目にあって、来るべき七曜をよろこび迎えようとしている」と、自ら解説している。
  3. 茶碗(書付)「七曜」東翠明 作箱書は「七曜」。茶碗の胴(側面)に「七曜」「麗春」「誓子」。高台脇(側面下部)に「翠明」の銘がある。東(大正8・1919生)は石川県の陶芸家。昭和43年頃の作品と思われる。
  4. 散文集『夜月集』昭和14・1939刊 第一書房「序」で誓子は、「この集の意図は、現代俳句の宣明にある。俳壇の動向を指し、作品を評し、作家を論ずる」と書いている。表紙画は林良(りんりょう)筆。林は15世紀・中国(明)の画家
  5. 共著(野尻抱影)『星恋』昭和21・1946刊 鎌倉書房野尻(明治18・1885~昭和52・1977)は英文学者・随筆家で星の研究家。作家・大佛次郎はその実弟。本書は、星に関する誓子の俳句と野尻の随筆を組み合わせた作品である。誓子は当時、転地療養のため富田(四日市市)にいた。本集には、富田の夜空を詠んだ句が多数収められている。

北園克衛

1902年(明治35)10月29日~1978年(昭和53)6月6日  度会郡四郷(しごう)村(現伊勢市朝熊町)出身  詩人

父橋本安吉、母ゑいの二男。本名、橋本健吉。兄橋本平八(1897~1935)は日本美術院同人で、独創的な木彫で知られる彫刻家である。
四郷村立尋常高等小学校(現伊勢市四郷(しごう)小学校)、宇治山田市立商業学校(現宇治山田商業高校)、中央大学経済学部を卒業する。 
1924年(大正13)、詩誌『GE・GJMGJGAM・PRRR・GJMGEM』を創刊し、1929年(昭和4)、第一詩集『白のアルバム』を刊行。1931年には宇治山田出身の岩本修蔵と詩誌『白紙』を創刊する。1935年創刊の詩誌『VOU』は、1978年に160号で終刊するまで北園克衛が編集発行した。この『VOU』は、形象・非形象について、あるいは言葉の機能について、理論的に裏づけされた詩の実験をたえず試み、斬新なデザイン感覚と、きびしい芸術家精神を持ち続けた北園克衛に私淑して集まった多くの詩人たちの拠点であった。
北園克衛の著作は、詩集、英文詩集、訳詩集、短編小説集、句集、評論集など38冊にのぼるが、絵にも写真にもポエジイ溢れる作品を残し、海外の詩人との交流にも積極的であった。北園克衛の詩は非経験主義による作品が多い中で、リリカルで「郷土詩」と自称する作品もかなりある。30歳半ば以降、帰郷しなかった彼ではあるが、これらはあきらかに故郷朝熊のイメージによる作品である。伊勢市朝熊町には生家が現存している。 

展示品解説

  1. 原稿「恩地孝四郎の詩と版画」(250字詰 13枚)
    初出不明。執筆は昭和30年以降である。 恩地孝四郎(明治24・1891~昭和30・1955)は版画家・装本家・詩人。日本を代表する装本家の一人である。北園の著作では、『夏の手紙』『サボテン島』の2作品の装幀をしている。
  2. 年賀状徳田戯二宛昭和42年
    徳田戯二(明治31・1898~昭和49・1974)は小説家。北園がまだ本名(橋本健吉)で創作活動をしていた昭和初年頃、徳田の主宰する雑誌に作品を載せていた事がある。ルネ・マグリット(1898~1967)はベルギーのシュルレアリスム(超現実主義)の画家。
  3. 詩集『サボテン島』昭和13・1938刊 アオイ書房
    内表紙に自筆サインがある。書容構成(装幀)は恩地孝四郎。170部限定出版。
  4. 詩集『火の菫』昭和14・1939刊 昭森社
    挿画及び装幀は東郷青兒。212部限定出版。
  5. 詩集『空気の箱』昭和41・1966刊 VOUクラブ
    装幀は北園克衛。200部限定出版。
  6. 詩誌VOU 62昭和33(1958)年7月刊 VOUクラブ
    本誌は北園主宰の芸術雑誌。本号には、「エッセイ」「詩」「写真」の各部があり、北園は写真とエッセイ・編集後記を載せている。

尾崎一雄

1899年(明治32)12月25日~1983年(昭和58)3月31日  度会郡宇治山田町(現伊勢市浦田町)出身  小説家

神宮皇学館教授であった父尾崎八束と母タイの長男として生まれる。家は神奈川県下曾我(しもそが)村にあり、祖父の代まで宗我(そが)神社の神官を務めていた。3歳の時下曾我村に帰るが、6歳で宇治山田の明倫小学校に入学、翌年まで在学した。「父祖の地」(1935)には「私が生まれたのは、宇治の五十鈴川のほとりだが、・・・(中略)父と私は、山田の岡本町に移った」とある。 
文学との出会いは、神奈川県立第二中学校の頃、志賀直哉の「大津順吉」に感動したことに始まる。1920年(大正9)、父の死去により21歳で家長となり、進路の自由を得て早稲田高等学院に入学。その後、同大学国文科へと進み、大学の同人誌に「二月の蜜蜂」を発表、文壇でも評価される。在学中に丹羽文雄を知る。
大学卒業後、徒食と濫費から貧窮に陥り、志賀文学の呪縛に苦しむ一方で、新興のプロレタリア文学への反感から、一作も書けない状態が続いた。1931年(昭和6)19歳の山原松枝と結婚、作家として再起する契機となる。自由闊達(かったつ)な境地を描いた「暢気眼鏡(のんきめがね)」(1933)を発表、同作を含む短編集で芥川賞を受ける。1944年(昭和19)、胃潰瘍による大吐血で倒れる。その後、諦念とユーモアから独自の文体を生み出し、「虫のいろいろ」(1948)に結実する。
故郷の宇治山田を舞台にした作品には、前述の「父祖の地」と『あの日この日』(1975)があり、いずれも幼少の頃の、特に父の思い出が綴られている。

展示品解説

  1. 原稿「芳兵衛 ― 或は、習俗に就て ― 」(400字詰 20枚)初出は「行動」昭和9年5月号。『暢気眼鏡』(昭和12・1937 砂子屋書房)に収録。「芳兵衛」のモデルは尾崎の妻松枝。「芳枝」として、多くの作品に「出演」している。
  2. 書簡吉川富三宛昭和44・1969年6月23日付 (便箋6枚・封筒入)囲碁界の「明日をつくる人々」に、加藤正夫5段(当時)を推薦・紹介した手紙。吉川の依頼に対する返信。吉川は写真家で、「日本肖像写真家協会」の設立者。尾崎は囲碁が好きで、作品中にも、碁を打つ場面がしばしば描かれている。
  3. 色紙「李白一斗詩百編」 杜甫作の七言古詩「飲中八仙歌」の一節。「李白は酒を一斗飲むと詩を百編作る」というほどの意味。尾崎も生涯、酒を愛した文人であった。
  4. 著書『暢気眼鏡』昭和12・1937刊 砂子屋書房 初版尾崎の「第1小説集」。表題作の他、天衣無縫な妻を描いた「芳兵衛」、生まれ故郷・宇治山田と父の思い出を描いた「父祖の地」など、「無名の少壮文学者の貧乏生活を取材とした身辺小説」(佐藤春夫)9編を収める。第5回芥川賞受賞作品。
  5. 著書『暢気眼鏡』普及版昭和15・1940刊 砂子屋書房 第3刷巻末広告に「特異なる貧乏小説/ユーモラスな作集」とある。装幀は大貫松三。
  6. 著書『暢気眼鏡』昭和25・1950刊 新潮社(新潮文庫)丹羽文雄は解説の中で尾崎を「すべての点で私の兄」と書いている。同様の言葉は、昭和58年の尾崎の死に際しての小文(「尾崎一雄の友情」。『尾崎一雄 人とその文学』所収)にも見える。

中谷孝雄

1901年(明治34)10月1日~1994年(平成6)12月27日  一志郡七栗村(現久居市森町)出身  小説家

一志郡七栗(ななくり)村(現久居市森町)出身。県立第一中学(現津高校)から三高、東大へ。梶井基次郎らと『青空』を創刊。「春」「くろ土」「春の絵巻」などを発表。その後、『日本浪漫派』創刊に尽力、戦争と切り離せない昭和10年代の文学をリードした一人である。 

1929年(昭和4)、東大ドイツ文学科を中退し、福知山歩兵第20連隊に幹部候補生として入隊。除隊時に少尉。
1935年(昭和10)、保田與重郎、亀井勝一郎などとともに「日本浪曼派」を結成。日本回帰の傾向を示した。
1938年(昭和13)、武漢作戦にペン部隊陸軍班14名の一員として参加。各種の新聞に通信を送る。翌年、従軍記を「滬杭(ここう)日記」として発表。1943年(昭和18)、予備役少尉として応召、ニューギニアに出征した。当時の悲惨な軍隊生活を「徒労」(1962)や「のどかな戦場」(1964)「その前後」(1966)などに描いている。1946年(昭和21)に復員。この時の様子を「梅の花」(1971)に記した。
また、1972年(昭和47)には、雑誌『浪漫』の発刊に参画、同人として活躍した。
「のどかな戦場」は兵站(へいたん)部隊(兵器・食料などの補給・輸送に従事)の小隊長として、60名の兵士とともに西部ニューギニアのマノクワリ基地に駐屯していた時の体験譚である。マラリアの蔓延や栄養失調、敵機の来襲など、常に死と背中合わせの状況に置かれながら、戦争という日常を生きる兵隊の姿が淡々と書かれている。「その前後」にも敗戦直後の現地人と兵隊たちの動向が、客観的に抑制された筆致で描写されている。

展示品解説

  1. 書簡大木惇夫宛昭和40年7月2日
    大木(明治28・1895~昭和52・1977)は詩人・作詞家。大木が同年出した詩集『失意の虹』(南北社)を贈呈された事に対する礼状。
  2. 著書『春の絵巻』昭和12・1937刊 赤塚書房 初版
    中谷の第1作品集。旧制三高(現京都大学)時代の体験を元にした作品で、川端康成の「文芸時評」で好評を得た「春」など、6編を収めている。
  3. 著書『死とその周囲』昭和15・1940刊 河出書房 初版
    父の死を描いた表題作の他、故郷の方言を会話に活かして思春期の姿を描いた「田舎ことば」、高校の同級生梶井基次郎の思い出を描いた「梶井基次郎」など、9編を収めている。
  4. 著書『招魂の賦』昭和44・1969刊 講談社 初版
    淀野隆三・三好達治・亀井勝一郎・外村繁・佐藤春夫・・・中谷が親しく交際し、その死を見送った人々の姿と彼らへの思いを描いた表題作と、「抱影」「蝉の声」の全3編を収める。「招魂の賦」は昭和43年度芸術選奨受賞作品。
  5. 著書『京は人を賤うす』昭和44・1969刊 皆美社 初版
    中谷の歴史小説集。藤原伊周を描いた「敗者の歌」、足利義昭を描いた「妄執」など、5編を収める。
    装幀は棟方志功。中谷は棟方の死後、「棟方志功といふ男」(昭和54年発表。『中谷孝雄全集 第3巻』(新学社)所収)という文章に想い出を書いている。
  6. 著書『故郷』昭和48・1973刊 永田書房 初版
    戦地から復員して故郷や妻子の待つ長野の地での出来事などを回想して描いた「梅の花」、父の33回忌に帰郷した際の出来事を描いた「故郷」、他に「庭」1編を収める。

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