梅原三千は、元治元(1864)年一志郡久居町戸木に生れ、明治17(1884)年に三重県師範学校の高等師範学科を卒業しました。その後、安濃郡養正小学校四等訓導として教員となりますが、教員生活は三重県に留まらず、明治23(1890)年には大阪府、明治24(1891)年には長野県、そして明治25(1892)年には三重県へ戻り、久居尋常小学校訓導となります。明治29(1896)年には三重県収税局へ入るものの、また学校へ戻っています。
明治31(1898)年には飯南郡書記となりますが、官界に入ってからも明治38(1905)年に栃木県属、明治39(1906)年に秋田県属とめまぐるしく転任をくり返します。明治43(1910)年頃には朝鮮総督府に入り、咸鏡北道(かんきょうほくどう)へ赴任しました。しかし大正2(1913)年2月、上司と対立し職を去り帰国しています。
津へ帰ってからは年金生活に入り、三重新聞の顧問となりますが、翌年には辞しています。勧学院(高田高校)の教員となったほか、また大正12(1923)年から昭和3(1928)年、昭和6(1931)年から8(1933)年まで、津城址の一角にあった藤堂家事蹟編述会や、津市役所の市史編纂局で市史の調査にあたりました。
晩年は白内障に冒され、昭和18(1943)年10月、市内の病院で手術を受けますが、なかなか視力は回復せず、大きな字で手習いした紙が残っています。またこの頃から、狂歌のようなものを書き始めています。また戦争が激化してくると出版も思うにまかせず、和紙にカーボン紙を使って手書きした私製本を作るようになったようです。
昭和20(1945)年7月、津市は米軍の空襲を受け市の中心部に多量の爆弾が投下されました。軍や市役所は各家庭に防空壕を掘ることを勧めますが、梅原家に防空壕はありませんでした。「わしにはアメリカの爆弾は当たらん」と言って壕を掘ることを拒んだようですが、丹精こめて作った庭を、壕堀りで壊すことを嫌ったのだと言う人もいます。
爆撃が始まると、一家八人は押し入れに隠れましたが、付近に爆弾が落ち梅原を含む四人が亡くなりました。遺体は養正小学校の講堂へ集められ、生き残った家族はそこで線香を供えました。その講堂も数日後の焼夷弾攻撃で燃えてしまい、遺体の行方は分かりません。家族は下着を燃やして、その灰を墓に入れたそうです。
梅原の死後、残された原稿類は家族によって友人の郷土史家・鈴木敏雄へ託され、鈴木の死後に三重県立図書館に寄贈されました。
梅原三千関係資料目録