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1997/11/09

第11回企画展「斎藤緑雨と明治文壇」

| by システム担当者

展示期間:平成9年11月9日(日)~11月24日(月)
〒514-0061 津市一身田上津部田1234番地
三重県立図書館 情報相談課 (TEL 059-233-1180)
ご意見・ご感想は mailto:mie-lib@milai.pref.mie.jpまで


「斎藤緑雨と明治文壇」展にあたって

三重県立図書館文学コーナー企画委員 藤田明(高田短期大学)

文学コーナーも開設四年目を迎えました。常設展示以外に年三回ほど企画展を催していますが、近・現代関係では、個展として田村泰次郎、三人展として地元の今井貞吉・瀬田栄之助・浅井栄泉、テーマ展として戦争と文学(散文編・詩歌編)、県内同人誌展・文学散歩などをとりあげてきました。
今回は、斎藤緑雨の登場です。再評価の機運も高まりつつあり、『斎藤緑雨全集』の完結も目前、しかも今年は生誕百三十年に当たっています。 
鈴鹿に生まれましたが、早く上京し、まるで江戸っ子であるかのように活 躍した面が多分にあります。しかしペンネームのつけ方や、最初期の小説・ 晩年の日記などからは伊勢の国を意識していたことがわかります。 
明治二十年代から三十年代にわたり活躍しました。代表的小説は「油地獄」 「かくれんぼ」「門三味線」、それに数限りない寸言で知られています(私事に わたりますが、かつて鈴鹿の読書サークルで上記三作を何年もかけて読み合っ たことがあり、充実感をおぼえたものです。しかし他の小説へ移ろうとし、 壁にぶつかりました。そこで寸言集に転じ、その毒舌ぶりに驚いたのを思い 起こします)。 
文壇の主流がロマン主義から自然主義へ向かいつつあった時期にも、相変 わらず戯作的姿勢を貫き、近代化の潮流に矢を放っていたのでした。伊藤整 は、緑雨を太宰治など破滅型文学者のルーツとみなしましたが、猪野謙二も 同様の見解です。孤立をおそれず、時代の流れに反骨をもって抗した姿勢は、 今日の私たちに何かを示唆せずにはおかないものがある、と言えましょう。 
三重県出身の近代作家第一号たる緑雨、全国初の展示ですが、感想・意見 などをどうかお寄せください。

解説 衣斐弘行

1 斎藤緑雨について


― 按ずるに筆は一本也、箸は二本也。 衆寡敵せずと知るべし ― (青眼白頭)

名アフォリズム(警句)を多く吐き、寸鉄人を刺す辛辣な批評を以て、明治文壇に鬼才と謳われ、 小説家・評論家として活躍した斎藤緑雨(一八六七~一九〇四)が三重県鈴鹿市に生れて、 今年は一三〇年にあたる。


斎藤緑雨は、本名・賢。幼名を俊治といい、慶応3年12月30日河曲郡神戸新町75番屋敷 (現・鈴鹿市神戸2丁目)に、伊勢神戸本多侯の典医であった父・利光と、母・のぶの長男として生まれた。 明治9年、9歳で上京後、其角堂永機について俳句の手引きを受け、幼友上田万年(国語学者)と 回覧雑誌を発行するなど、文学に傾倒する。 
明治17年、17歳の時、仮名垣魯文の弟子となり、ついで『今日新聞』に入社。 この頃から文学活動は本格化する。戯作風の続き物や、パロディ批評で文壇に登場。 やがて花柳小説「油地獄」、「かくれんぼ」で作家的地位を確立し、「門三味線」では、樋口一葉の「たけくらべ」と競った。 
明治30年以降は、「おぼえ帳」以下のアフォリズム(警句)やエッセイが主になっていく。 性猜介、新聞社を転々とし、貧窮のうちに肺患のため、明治37年4月13日、 「僕本月本日を以て目出度死去仕候間此段広告仕候也」という自分の新聞死亡広告を馬場孤蝶に口述させて、 本所横網町に没した。37歳であった。
なお、名批評〈三人冗語〉の中で、緑雨は樋口一葉の「たけくらべ」を激賞、以降、一葉の死まで二人の交流は続いた。 緑雨の弟子としては、小杉天外が唯一といわれている。

2 緑雨の出生と神戸時代

緑雨の父、利光は安濃郡津下塔世町(現・津市北丸之内)で医術を営んだ賢木神光の三男で、 謙堂と号して和歌などを嗜んだ。この父方の祖父・神光は京の歌人大田垣蓮月や中島棕隠、 また津の狂歌師として知られた芝原音信らと親交があり、 津藤堂侯ときわめて近い関係にあった人物と考えられる。 母・のぶは瀧澤姓で江戸京橋槙町の生れ。津藤堂家奥方付きの祐筆であった。 のぶは江戸で結婚して一女(緑雨の異父姉.つま)を生み、先夫の死後、 神戸本多侯の典医であった斎藤俊道の養女となる。 
上京後の緑雨は、土屋小学校、東洋小学校、江東小学校と転々と在学したが、そこでの記録は残っていない。 しかし、緑雨が生れた神戸新町75番屋敷から神戸小学校に通学した当時の唯一の貴重な記録が、 『小学生徒学科卒業免許状授与録』として鈴鹿市立神戸小学校に残されている。 明治9年4月12日に七級を受験し合格した十一名の中に「斎藤賢」の名前が記されている。 
ちなみに、その頃の神戸の子供たちの口遊びに、 「親がリコウ(利光)で子供がマサル(賢)、斎藤の内ではテモ奇体な」という流行言葉まであったという。

3 文壇における活躍

明治19年『今日新聞』に江東みどりの筆名で処女小説「善悪押絵羽子板」を連載後、 22年『読売新聞』に緑雨醒客の筆名で小説「紅涙」、『東西新聞」に正直正太夫の筆名で「小説八宗」 をそれぞれ発表。このパロディー批評「小説八宗」で緑雨は一躍文壇に脚光を浴びる。 
翌23年『読売新聞』にやはりパロディ批評「正直正太夫註」、「初学小説心得」、 「小説評註問答」をそれぞれ連載発表し、評論家としての名を高める。 また、24年『国会』新聞に発表した「油地獄」や、『文学世界』に発表した「かくれんぼ」によって 小説家としての地位も確立したが、この頃を機に、『国会』紙上に多くの批評文を発表掲載し、 宮崎三昧、森鴎外、巌谷小波らとの文壇論争を引き起こしている。 こうした緑雨の毒舌ぶりを、当時の文壇仲間は「怖いものは無名の菌と正直正太夫」という言葉で表現した。 29年には『めさまし草』に鴎外、露伴らと作品合評「三人冗語」を連載、これは当時の最も権威ある批評欄とされた。 
30年代となると、「眼前口頭」、「半文銭」、「おぼえ帳」、「ひかへ帳」、「日用帳」といった 短文によるアフォリズム(警句)を発表し、緑雨の面目を発揮するにいたる。

4 緑雨の書簡

緑雨の文字は例の肩下がりの癖のある書体であるが、「模様のやうに美麗だ」 (師岡千代子『夫・幸徳秋水の思ひ出』)と当時から評された。その筆は速く、短い生涯にかかわらず、 森鴎外、幸徳秋水、坪内逍遥などに宛てた多くの手紙が遺されている。 また、樋口一葉宛の手紙などは、一葉自身が書き写したものが遺されていたりもする(『一葉に与へた手紙』)。

今回ここに紹介した手紙は、緑雨の新聞記者当時(明治20年代)に交遊のあった小説家渡辺霞亭宛(二通)、劇作家伊原青々園宛(二通)、 それに『万朝報』入社から最晩年(明治30年代)にいたるまで交遊のあった幸徳秋水宛(二通)などである。 年代順としては、霞亭宛二通が在京当時(20年代)、青々園宛のうち一通が在京当時(30年秋)、 一通が小田原当時(30年から35年)のもの、同じく秋水宛二通(35年)であり、緑雨らしい内容に富む。 
そして、これら交遊文士とは別に、下谷坂本町で酒店「鍵屋」を営む従兄弟宛(三通)がある。 これらは、小田原から、再び東京にもどって病死する二ヵ月前の間のもので、緑雨晩年の様子が伝わる。 
また内縁の妻、金沢タケの葉書一通(36年)はおそらく現存唯一のものであろう。

5緑雨と明治文壇

緑雨が明治の文壇で最も活躍した時期は、明治20年代初めから、33年鵠沼療養前までの間であった。 
22年の「小説八宗」から、26年の「文学一からげ」にいたる多くのパロディ批評は新しい批評文学を創出したと言える。反面、小説家としての緑雨は、自身が、「油地獄を言ふ者多く、かくれんぼを言ふ者少し、是れわれの小説に筆を着けんと思ひ、絶たんとおもひし双方の始なり、終なり」(「日用帳」)という如くこの二作に代表され終っている。 
鴎外が29年にそれまで休刊になっていた『しがらみ草紙』の後身として創刊した『めさまし草』での匿名批評「三人冗語」は、鴎外が鐘礼舎、露伴が脱天子、緑雨が登仙坊で、後、この三人に依田学海、饗庭篁村、森田思軒、尾崎紅葉らを加えての「雲中語」へと発展、当時の最も注目される評論壇とされた。同郷の歌人、佐佐木信綱ともこの頃、鴎外の居住宅「観潮楼」で顔を会わせている。 
なお、批評家としての緑雨が当時の文壇中、最も関心を寄せたのは樋口一葉であった。 その一葉の死後も、妹邦子の世話をしたり、最初の『一葉全集』を校訂し、博文館から出版(30年)したりしている。

6 緑雨の今日

『斎藤緑雨全集』(全八巻・筑摩書房)の刊行が残る一巻(書簡・年譜等篇)を以て完結するが、 それによって緑雨の残した文業と生涯がほぼ全容明らかになる。今日まで、緑雨作品は断片的に読み継がれてきたし、永井荷風や芥川龍之介といった人々にも語り継がれてきた。決して多くはないが、没後も根強い緑雨文学の愛読者がいる。大岡昇平などもその一人で緑雨文学を枕頭の書の一つとしていた。緑雨の姪を母にもつ橋爪政成の『斎藤緑雨伝』(昭和39年九州文学社)は、最初の緑雨の伝記として価値が高い。橋爪政成は津市窪田の生れで、後、九州に行き生涯を終えているが、墓は緑雨の異父姉つま(橋爪の祖母)の嫁先、窪田の仲福寺に建つ。

その頃、明治百年を機に『斎藤緑雨集』(明治文学全集28)が刊行され、にわかに緑雨に関する論考や、緑雨を題材とした小説が生れた。松本清張の「正太夫の舌」(『文豪』昭和49年文芸春秋)や、野口冨士男の『散るを別れと』(昭和55年河出書房新社)、それに高井有一の『塵の都に』(昭和63年講談社)などがそれである。前二作は上京後の緑雨像を浮上させ照射し、後者は、津・鈴鹿を描写して、従来の緑雨像を払拭しているところに二作と違った興味がある。


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