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2015/10/21

第44回 月僊上人 -絵で人々を救済した伊勢の画僧-

| by システム担当者

江戸時代後期の僧侶・画家で、伊勢寂照寺の住職として過ごした月僊上人に関する関連資料の展示・紹介を行いました。
(名前については、「月僊」の他に、「月[セン](字解:へんはニンベン、つくりの上半分は「栗(くり)」の上半分、下半分は「傑(けつ)」のつくりの上半分の字)」「月仙」など、複数の表記がありますが、本稿では引用を除き、「月僊」に統一します。)


  • 展示期間平成17年4月3日(日)から平成17年6月29日(水)
  • 解説
  • 参考資料
参考資料一覧(2005年4月現在)
書名編著者出版者出版年
月僊上人画本-寂照寺蔵版- 3月僊/著山本平佐衛門1784
月僊書簡月僊(岡本聴雨関係資料)
桃源詩画田器/著[出版者不明]
列僊図賛1月僊/画芸艸堂1780
列僊図賛2月僊/画芸艸堂1780
列僊図賛3月僊/画芸艸堂1780
月僊遺墨集田中善助/編田中善助1924
三重県史談会々志第1巻(復刻版)郷土出版社1999
日本書誌学大系23‐7三村竹清集7青裳堂書店1985
松阪市史第8巻松阪市史編さん委員会/編著蒼人社1979
月仙雑纂(田村泰次郎文庫資料)
月僊上人 神宮司庁1953
画僧月僊、慶光院記、その他浜口良光/著伊勢合同新聞社1961
月僊上人伝記と作品浜口良光/著月僊上人顕彰会1969
研究論集第3号三重県立美術館/編集三重県立美術館1991
画僧“月僊”伊勢市立郷土資料館/編伊勢市立郷土資料館1993
神都の書画人伊勢市立郷土資料館/編伊勢市立郷土資料館1996
神都の書画人2伊勢市立郷土資料館/編伊勢市立郷土資料館1997
三重郷土の華百人展 北岡技芳堂1985
墨いのち百人展 北岡技芳堂1990
三重の近世絵画三重県立美術館/編集三重県立美術館1989
三重県立美術館所蔵品目録1982年版三重県立美術館/編集三重県立美術館1982
三重県立美術館所蔵品目録1987年版三重県立美術館/編集三重県立美術館1987
三重県立美術館所蔵品目録1992年版三重県立美術館/編集三重県立美術館1992
三重県立美術館所蔵作品選集三重県立美術館/編集三重県立美術館2003
伊勢市の文化財伊勢市教育委員会社会教育課/編集伊勢市教育委員会1981
能書家たちによる三重県・郷土の先賢傳小川匪石/著有匪篆刻研究会2001
三重の書三重県高等学校教育研究会書道部会研究部/編三重県高等学校教育研究会書道部会研究部2001
伊勢郷土史草第24号 伊勢郷土会1988
すばらしきみえ116RON百五銀行企画グループ広報チーム2003
月遷の画業と奉仕(『大法輪1992年10月号』所収)大法輪閣1992
県史あれこれ2三重県生活文化部学事課/編集三重県生活文化部学事課1996
人づくり風土記24加藤秀俊/〔ほか〕編纂農山漁村文化協会1992
伊勢古市の文学と歴史中川竫梵/著古川書店1981
伊勢古市考野村可通/著三重県郷土資料刊行会1971
伊勢の古市夜話野村可通/著三重県郷土資料刊行会1976
茶話伊勢山田(復刻版)中田政吉,中田和子/著中田和子1986
日本立志編-名脩身規範-巻之一干河岸貫一/著1882
正続神都百物語松木時彦/著古川書店1972
宇治山田市史下巻宇治山田市役所/編纂宇治山田市役所1929
伊勢市史 伊勢市1968
神宮随筆大成後篇神宮司庁/編輯西濃印刷株式会社岐阜支店1942
伊勢詩志鷹羽雲淙/著岡田屋嘉七1776
江漢西遊日記司馬江漢/〔著〕、芳賀徹,太田理恵子/校注平凡社1986
鶴梁文鈔3~4巻林鶴梁/著[出版者不明]1867
桜斎随筆第16巻鹿島則孝/編著本の友社2001
禅門逸話選下禅文化研究所/編禅文化研究所1987
先賢遺芳 三重県1915
三重先賢伝(復刻版)浅野松洞/著東洋書院1981
三重県の画人伝(復刻版)我妻栄吉/著三重県郷土資料刊行会1983
郷土人物略伝3 宇治山田市有緝尋常高等小学校
度会人物誌度会郷友会/編纂度会郷友会1934
日本人物情報大系61芳賀登/〔ほか〕編集皓星社2001
日本人物情報大系63芳賀登/〔ほか〕編集皓星社2001
日本人物情報大系67芳賀登/〔ほか〕編集皓星社2001
日本哲学思想全書第12巻三枝博音/〔ほか〕編集平凡社1957
近古芸苑叢談森慶造/著巧芸社1926
神宮徴古館列品総目録神宮徴古館/〔編〕神宮徴古館農業館1971
鉄城翁伝鉄城会同人/〔編〕著鉄城会事務所1944
三重県事業史第九回関西府県聯合共進会三重県協賛会/著第九回関西府県聯合共進会三重県協賛会1907
三重県史談訂正再版村上政太郎/著豊住 謹次郎1894
三重県史 三重県1964
伊勢・志摩気ままに電車とバスの旅 実業之日本社2001
海の蛍伊勢・大和路恋歌沢田ふじ子/著学研1994
生糸土師清二/著白林書房1944
神都名勝誌巻四東吉貞/編神宮司庁1895
譚故書餘乾芳野匏宇/著宇田総兵衛1876
停留所前の家寺久保友哉/著講談社1978

解説

歴史上、「偉人」といわれる人は少なくありません。彼らは、時代・地域・分野こそ違え、その生涯や素顔は、さまざまな形で今に伝えられ、時に私たちを勇気づけたり感動させたりします。 

今回のミニ展示で取り上げる「月僊(げっせん)上人」は、江戸時代後期の人で、僧侶であり、画家でもありました。彼は、たくさんの上手な絵を描き、それで得たお金を、寺の復興をはじめとして、飢饉に苦しむ人々を助けたり、伊勢参宮の道路を直したりと、自分以外の人のために使いました。もともとは愛知県の人ですが、その後半生30数年間を伊勢寂照寺の住職として過ごし、地元に多大な貢献をした人です。以下、「月僊上人」について、関連する当館所蔵資料とともに紹介したいと思います。


(画像は『月僊上人画本-寂照寺版-』より)

1伝記

月僊は、寛保元年(1741)に名古耶、今の名古屋市に生まれました。7歳で仏門に入り、江戸・京都で修行し、34歳の時、山田、今の伊勢市の寂照寺の住職となり、伊勢の地にやって来ます。没年は文化6年(1809)、69歳の生涯でした。 
翌文化7年(1810)、寂照寺に碑が建てられました。題は「寂照寺画僧月仙上人碑銘」、弟子定仙による文章です。その中に、月僊の生涯が書かれています。現在に至るまで、伝記・小説等さまざまに語られている月僊ですが、最も基礎的な資料は、この碑文です。 
この碑文について解説を加えたのが、三村清三郎(竹清)です。彼の「画僧月仙碑銘伝」は、明治43年創刊の『三重県史談会会誌第一号』の巻頭を飾りました。彼はその中で、碑文の記述を、『画乗要略』『山中人饒舌』などの他書の記述と対照したり、三村が直接聞き取ったと思われる口碑(言い伝え)を引いたりしながら、逐一検証していきます。三村竹清は在野の書誌学者で、一時期三重県に在住し、「三重県史談会」設立に関わるなど、三重県にゆかりの深い人物です。三重県に関する氏の著作を集めた『日本書誌学大系23三村竹清集七』の中に、本論文も収録されています。 
月僊の伝記としては『画僧月僊、慶光院記、その他』『月僊上人』(ともに浜口良光著)が最も詳しいものですが、小説的要素も含まれています。神宮司庁発行の小冊子『月[セン]上人』所収の「月[セン]上人の絵と愛と奉仕の生活」(大西源一著)は、三村論文をベースに、それを補完する内容となっています。『人づくり風土記24三重』の「蕭白と月僊」(毛利伊知郎著)は、難しい漢字にはルビがふってあるなど、読みやすい内容となっています。『県史あれこれ2』所収の「社会福祉に尽くした画僧・月僊 」(海津裕子著)や、『すばらしきみえ116』所収の「近世近代日本画家月僊(伊勢市) 」(毛利伊知郎著)は、コンパクトにまとめられている上に、インターネット上でも読むことができて便利です。

社会福祉に尽くした画僧・月僊(外部リンク)

近世近代日本画家月僊(伊勢市)(外部リンク)

2作品と絵画史上の評価

月僊はたいへんな多作家でした。多くの書物がそれを伝えています。作品は、三重県内だけでなく、全国に広く残っています。県内では、寂照寺に、伊勢市から文化財に指定されている二作品がある他、神宮徴古館と三重県立美術館にまとまったコレクションがあります。 


『月[セン]上人』所収の「月[セン]上人作品奉献に際して」(池田敬八著)には、氏が伊勢神宮に月僊の作品を献納する経緯が書かれています。氏は伊勢山田に生まれ、小学校の時、教科書で月僊の話を読んで感動し、月僊の作品を集め始めました。関東大震災で一度、それまでの収集品全てを失いましたが、再度収集し、昭和27年、伊勢神宮に奉献しました。『神宮徴古館列品総目録』を見ますと、「月[セン]上人作品集(池田敬八氏寄贈)」として、462点の所蔵があることがわかります。 
三重県立美術館には、「旧小津茂右衛門コレクション(小津家寄贈)」として、月僊の作品60数点が所蔵されています。そのうちの代表的な作品は、同館が出している各種図録の他、インターネット上でも見ることができます。

三重県立美術館(外部リンク)


月僊の画家としての経歴は、実はあまりよくわかっていません。作品は多く残しましたが、制作年不詳のものが多く、確かな資料に乏しいのです。江戸で、雪舟の流れを汲む画家・桜井雪館に学んだ事は確かですが、円山応挙や蕪村に学んだという点については、いわば「状況証拠」からそう言えるだけです。その点をはっきりと指摘しているのは、管見ですが、前述の三村竹清(「画僧月仙碑銘伝」)と、三重県立美術館(当時)の山口泰弘(『研究論集第三号』所収「月僊の初期作風の多様性と様式形成-人物画を中心として-」)の両氏だけです。先に紹介した「寂照寺画僧月仙上人碑銘」には、

…、其於画也、不循古人門牆、別為一家、故善画之名聞於海内、… 
(…、其の画に於けるや、古人の門牆に循(したが)わず、別に一家を為し、故に画を善くするの名は海内に聞こえ、…)

とあり、具体的な人名の記載はありません。また、月僊が亡くなって22年後の天保2年(1831)に出版された、画家の人物事典である『画乗要略』(白井華陽著)には、

…、初学桜井雪館、後法元明古蹟、参以蕪村、自出機軸、最長山水人物、… 
(…、初め桜井雪館に学び、後には元・明の古蹟(こせき)に法(のっと)り、参ずるに蕪村を以(もっ)てし、自(みずか)ら機軸を出し、最も山水・人物に長じ、…)

とあります。ここに円山応挙の名前はありませんし、「参以蕪村」という表現も意味がとりにくく、解釈は人によって実に様々です。 
日本最初の洋画家とされる司馬江漢の『江漢西遊日記』に、天明8年(1788)、江漢が月僊を訪れるくだりがあります。不意の訪問に最初は冷淡だった月僊でしたが、江漢が洋画・油彩画を描くと知るや、手のひらを返したように歓待し、「蘭画」、つまり西洋油彩画の制作を見せてくれるように頼みます。

…爰(ここ)に於(おい)て、色々持たる画出し見せけり。其中に蘭法にてかきたる人物あり。…之(これ)を見て、忽(たちま)ち其(その)あいさつかわりて、…打つて変(かわり)たる馳走ぶりにて、酒よ肴よとて、…其夜蘭画を望みける…

当時、江漢は42歳、月僊は48歳でした。自分の絵を向上させるものなら、流派や年齢にこだわらず、貪欲に学びとろうとする態度が、この記述から見て取れます。このような月僊の姿勢が、若い頃から変わらずあったと考えると、月僊の師弟関係を細かに詮索することは、学問的には別でしょうが、あまり意味のない事かもしれません。上に引いた「不循古人門牆、別為一家、故善画(既成の流派に属すことなく、月僊流の絵を巧みに描いた)」という「碑銘」の記述は、月僊の場合、文字通りに受け取ってよいように思います。 
当館には、明治以前の版本では、『列僊図賛』と、韓天寿や蒔田必器らとの合作『桃源詩画』が、明治以降の出版物では『月僊遺墨集』(田中善助編)他が所蔵されています。また、肉筆資料としては、岡本聴雨関係資料 中の「 書簡 」と、武藤文庫の画帖『月僊上人画本』があります。動植物の水彩が多く含まれている後者は、習作とはいえ、月僊の画風を伝える貴重な資料です。
 
(2枚の絵は『月僊上人画本-寂照寺版-』より)

3社会貢献と「月僊金」

月僊は絵を描いてそれをお金に換え、さまざまな良い事・社会貢献をしました。「碑銘」には、

…善画之名聞於海内、納潤筆者接踵而至、…、未幾年自山門大殿以至厨庫之属、奐然一新、…、又託五百金於郡尹、以預充寂照脩繕之費、…、文化乙丑…冬因郡尹請、上千五百金於官、以其息銭賑郡民之無告者有命充之、… 
(…画を善くするの名は海内に聞こえ、潤筆[執筆料]を納むる者、踵(きびす)を接して至り、…未だ幾年ならざるに山門・大殿より以て厨・庫の属に至るまで、奐然(かんぜん)として一新し、…又五百金[両]を郡尹(ぐんいん)[長官。当時の山田奉行]に託し、以て預(あらかじ)め寂照脩繕の費に充て、…、文化乙丑[2年(1805)]…冬郡尹に因りて、千五百金を官に上(たてまつ)り、其の息銭[利息]を以て郡民の告ぐること無き者[頼るあてのない貧窮者]に賑(ほどこ)さんことを請い、命有りて之を允(ゆる)され、…)

とあります。つまり、寂照寺の修築と将来の維持費および、窮民救済の寄付をしたことが、「碑文」に記されています。この「月僊金」について、『宇治山田市史』は、以下のように記しています。

…毎年十二月に至れば窮民を賑恤(しんじゅつ)[施し恵む]すること、維新の首(はじめ)にまで及んだ。世人その恩徳を称して寂照寺金又は月僊金と呼んだものである。これが救恤に預るべき範囲は「八日市場七番組々中覚」に… 
一 嫁娘壱人にて老父母を育て兼ね候者の分 
一 後家病身にて一人前の身過ぎも出来かね養育致すべき子供も幼少抔(など)にて家業もこれ無く候者の分 
一 夫婦倅(せがれ)これ有るものたりとも□病抔にて家内打ち臥し身継ぎ候親類もこれ無き分(是は快気の上は貧民相(あい)除き申すべき事) 
一 独身にて長々病気に□□或いは極老に及び日々を暮らし兼ね候分 
一 盲人にて針治・導引[もみ治療]・琴・三味線の業も致さず座頭仲間にてもこれ無き分
とあるにて大概を知り得る。

とあります。また、『伊勢市史』には、「明治以前の厚生事業」の中で、

…文化元年(1804)、寂照寺の月僊が、貧民救済基金を山田奉行所に提出したことなどがわずかに一般住民を対象にした救恤(じゅつ)事業であった。…

と記して、月僊の行為を歴史的に位置づけています。また、こうした行為は、月僊に対する社会的評価を高めました。慶応3年(1867)に出版された『鶴梁文鈔』(林鶴梁著)の「巻四」には、以下のような記載があります。

僧月仙。伊勢人。善絵事。然甚貪潤筆之資。毎有請画者。必先論価。而後搦筆。因是謗議囂。然月仙不顧也…。称貸其所獲金。竟至巨万。乃稍稍散之。以救窮人。窮人頼之。以自済者甚多。至今伊勢人呼曰月仙金云。此佐藤良仲之話也。… 
(僧月仙は伊勢の人なり。絵の事を善くす。然るに甚(はなは)だ潤筆の資を貪(むさぼ)る。画を請う者有る毎(ごと)に、必ず先に価(あたい)を論じて、而(しか)る後筆を搦(と)る。是に因(よ)りて謗議[そしり]囂(ごう)たり[やかましい]。然れども月仙顧みざるなり…。其の獲たる所の金を称貸[金を貸して利子をとること]して、竟(つい)に巨万に至る。乃ち稍稍[ようやく]之を散じ、以て窮せる人を救う。窮せる人之に頼る。以て自(みずか)ら済(すく)う者甚だ多し。今に至るまで伊勢の人呼びて月仙金と曰うと云う。此は佐藤良仲の話なり。…)


文中の「佐藤良仲」という人物が誰であるかは不明です。また、この項の末尾に、津藩の儒者・斎藤拙堂の言葉を引いています。

斎藤拙堂曰。宮川渡船本収銭。間之山路本甚悪。月仙捐数千金。並除旅人之患。其功於山田大矣。足代寛居為余言如此。 
(斎藤拙堂曰く、「宮川の渡船、本(もと)銭を収む。間(あい)の山路(みち)本甚だ悪し。月仙数千金を損(さしだ)して、並(とも)に旅人の患(わずら)いを除く。其の功山田に於いて大なり。足代寛居(あじろゆたい)余が為(ため)に言うこと此(か)くのごとし。」と。)

「足代寛居」とは、本居宣長の孫弟子にあたる伊勢の国学者・足代弘訓(ひろのり)の事です。 
また、明治37年(1904)に出版された『古画備考』(朝岡興禎著。『日本人物情報体系63』所収)に、以下の記述があります。

…みずからは、諸事けんやくをむねとし、夏も白木綿のひとへもの、冬もそのごとき質素なる体にて、いらるゝに、困窮なる者には、過分の金銀をめぐまるゝ事常なれば、其土地の者は、深く感じ尊みけり。…

この話には、「天保二年十二月四日、南伝馬町一丁目、伊勢屋と申、紙店の主話、…、勢州者也。」と注釈があります。天保2年は1831年にあたります。おそらくこの話は著者が直接聞き取った口碑なのでしょう。 
以上がすべて事実とすれば、月僊がした蓄財も散財もすべて、自分のためでなく、困った人を助けるための行為であったと言えます。

4教科書・小説に描かれた月僊

・『再刻日本立志編一名脩身規範一』
干河岸貫一著前川前兵衛明治13年(1880)序 



この本は「文部省検査済小学教科書」とあります。その「巻之一」に「第二十五釈月仙貪鄙ノ誚リヲ避ケザリシ事」という項があります。原文は文語体で難解な語句も多く、今から見るとこれが小学校の教科書だったとは信じがたいのですが、内容を要約すると、以下のようになります。

月仙がある時、一人の有名な芸者(「一名妓」)から絵の注文を受けます。芸者は「料金は月仙の望みに任せる。」と言います。絵を描き上げた月仙は、宴会中の酒席に通されます。芸者は月仙の前に金を投げてこう言います。「絵を売る僧など相手にはできない。お前の描いた絵は壁に飾る値打ちなどない。」そういうと芸者は着物を脱ぎ出し、下着を壁に掛けて部屋に飾り、月仙の描いた絵は下着として身にまとい、「良い軸は手に入らなかったが、良い下着を手に入れた。」と言い放ちます。 
つまり彼女は、最初から月僊に恥をかかせる積りだったのです。原文は以下のように続きます。

一坐之ガ為メニ目ヲ掩(おお)フ。月仙視シテ愧(はじ)ル色無シ。

このエピソードは、先に引いた『鶴梁文鈔』をはじめ、月僊を紹介する文章には必ずと言ってよいほど引かれる逸話です。各章末には「桜所子曰く」として著者自身の意見が載せてありますが、そこには、「身には立派な法衣をまとい、口にはありがたい説教を唱え、心は欲まみれの僧侶は世に多いが、月僊を同じにしてはならない」として、次のように評しています。

…済世継志ノ為メニ忍辱含垢、以て黽勉拮据、能く其志願を満足ス。月仙ノ事洵ニ多トスルニ足ルモノアリ。…

難解な語句がならんでいますが、要するに、「侮辱に耐えて善事を積んだ月僊は偉い」と絶賛しているのです。『鶴梁文鈔』の著者も、

…余聞浮屠氏以忍辱為苦行第一。月仙豈其人耶。 
(…余聞く、浮屠氏[仏陀。おしゃかさま]、忍辱を以て苦行の第一と為す、と。月仙豈(あに)其の人ならんや[月僊こそそれを実践した人である])。

と、最大級の賛辞を送っています。しかし、三村竹清は、「画僧月仙碑銘伝」の中で、ほぼ同時代の画家・岸駒の逸話として、類似の話があることを指摘して、

然してこれ等の話が同じく闊筆を多く得たる月僊に転じたるにあらざるか。

と推測しています。 


(『再刻日本立志編一名脩身規範一』より) 

・『生糸』 
土師清二著白林書房昭和19年(1944) 
6編の短編を収める小説集の中に、「乞食月僊」という作品があります。ほぼ、月僊の生涯をなぞっている、史伝・評伝とも言うべき作品です。この中に、「日当は扇子」という段落があります。以下、内容を要約して紹介します。 

寂照寺の修築中、月僊は大工・職人たちの日当を日払いにすると言う。夕方、仕事を終えて集まってきた大工たちを前に、月僊は、一方に日当分のお金、一方に絵を描いた扇子を広げ、どちらでも欲しい方を取るように言う。最初大工たちは皆お金を取っていくが、ある時一人の職人が扇子の方を取る。他の大工たちは不思議に思うが、その職人が実は好事家で、扇子が高値で売れることを知る。それから大工たちは皆、扇子の方を取るようになり、夕方になると門前で画商が待ち受けて扇子を買い集める程になる。月僊は午前中に人数分の扇子を描いてしまうと、仕事場の大工に向かって、「皆ご苦労さん。わしはもう皆の扇子を描いたよ。」と笑ったと言う。 
このエピソードは、「三重県史談会会誌」の中で三村竹清が口碑として伝えている逸話です。

今月僊の画扇の多く世に伝はつているのはこれだといふ話である。

と三村は結んでいますが、確かに神宮徴古館の月僊コレクションにも、扇子12本、扇面帖が2帖あります。 

・『停留所前の家』
寺久保友哉著講談社昭和53年(1978) 
これも、9編の短編からなる小説集で、その中に、「乞食月僊」という作品があります。この作品は、現代が舞台で、一人の中年男性が主人公です。家に伝わる古ぼけた水墨画の軸、それをめぐって、物語は展開します。その中で、絵の署名が「月僊」であり、その経歴や作品の骨董的価値が話題となります。軸中にみすぼらしく描かれた人物に対する主人公の心情の揺れがこの作品のテーマですが、現代人の心理を受け止め、それを映し出す表象として、月僊の作品が使われています。 

・『海の蛍伊勢・大和路恋歌』
澤田ふじ子著学習研究社平成6年(1994) 
舞台を三重・奈良両県に限定した歴史小説集で、18話からなり、「第十四話伊勢の聖(ひじり)」が、月僊を主人公にした作品です。伊勢の古市遊郭を舞台に、絵の注文を受ける月僊と、その周囲に起こったある事件の顛末が描かれています。ドラマチックな筋立てで、細部はフィクションですが、伝記的な事実もしっかりふまえられていて、月僊をわかりやすく知ることができます。 


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