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2015/10/21

第48回 津に300年続いた学びの家系

| by システム担当者

江戸時代、津で代々漢学・国学者であった山名家を当館の山名文庫の蔵書とともに紹介します。

『斉語童子問』

  • 展示期間 平成18年5月2日(火) から 平成19年12月16日(日)
  • 解説
  • 参考資料
当館所蔵参考文献(2006年3月現在)
書名編著者出版者出版年
津市文教史要津市教育会/著津市教育会1938
津市史 第3巻梅原三千,西田重嗣/執筆津市役所1961
津市古地図写本
よみがえる日本の城16 大垣城 津城学研2005
定本三重県の城『定本三重県の城』刊行会/編郷土出版社1991
官職浮説或問写本[1728]
伊勢物語童子問 1~8写本
荷田全集 第1巻(復刻版)稲荷神社/編纂名著普及会1990
山名政胤筆『富士山行記』の翻刻と考察城﨑陽子/著[国学院大学]2005
[断片](「芙蓉峯記行」他)[山名 政胤/著]写本
女今川写本
往来物解題辞典 解題編小泉 吉永/編著、石川 松太郎/監修大空社2001
往来物解題辞典 図版編小泉 吉永/編著、石川 松太郎/監修大空社2001
井上通女全集井上 通女/著香川県立丸亀高等学校同窓会1973
享保十三年補任官姓名写本
公儀秘談録写本
文用例證山本 北山/著須原屋茂兵衛1798
皇朝史要 1~2山名 留三郎/編陸軍幼年学校1889
皇朝史要 3~4山名 留三郎/編陸軍幼年学校1889
皇朝史要 5~6山名 留三郎/編陸軍幼年学校1889
皇朝史要 7~8山名 留三郎/編陸軍幼年学校1889
乃木希典全集 中乃木神社社務所/編国書刊行会1994
三重県史談会会誌 第5巻1、6号三重県史談会1915
日本古典偽書叢刊 第1巻小川 豊生/責任編集現代思潮新社2005
日本歌学大系 第4巻佐佐木 信綱/編風間書房1978
歌学秘伝の研究三輪 正胤/著風間書房1994
三重県地誌要略山名 吟作/編輯三重教育書舎1888
伊勢地誌雑纂稿山名 吟作/著写本
日本近世における民衆教育史研究のための伊勢国の寺子屋・私塾・郷学校の実態の調査研究梅村 佳代/〔編〕名古屋大学消費生活協同組合印刷部1990
日本庶民教育史(復刻版)乙竹 岩造/著臨川書店1980
日本教育史資料 8富山房1892
三重県安濃郡誌安濃郡教育会/編安濃郡教育会1924
津市郷土教育資料 1-4津市教育会/編知敬小学校1927
宗国史 上巻上野市古文献刊行会/編纂同朋舎1979
安濃津郷土史会誌 第1~10号安濃津郷土史会1936
大阪府の教育史梅渓 昇/編著思文閣出版1998
内務省人事総覧日本図書センター1990

解説

当館にある貴重四文庫のうち、山名文庫だけは他と違った性質がある。それは、他の三文庫がほぼ個人蔵書であるのに対し、山名文庫は何世代かの集書によるという点である。それが、山名文庫の説明のしにくさでもあり、価値でもある。今回の展示では、山名文庫にある自筆本を中心に取り上げながら、山名文庫と山名家を紹介します。

1 山名家について

山名家は、江戸時代初期から津に続いた家である。梅原三千は『津市文教史要』『津市史』の中で、山名家を簡単に紹介している。また、子孫の方の作成した家譜には、江戸初期からの系譜が書き記されている。
江戸時代の教育に関する文部省調査をまとめた『日本教育史資料8』によると、「修天爵書堂」という名の寺子屋が、慶長年中(1596~1614)から安政年中(1854~1859)まで続いたとある。この塾がすなわち山名家である。欄中に「山名信之介(のぶのすけ)」の名が見えるが、これは調査回答者であろう。「信之介」は「山名政方(まさみち)」の通称である。彼は山名文庫寄贈者である山名政大(まさお)の父にあたる人である。幕末に津藩が庶民のために「修文館」という塾を設置すると、彼の父政興はその教員となり、父の死後は信之介がその後を継いだ。山名文庫中の資料『今体初学文範字解』は、修文館教員山名信之介の残した指導ノートである。それはともあれ、修文館設置と同時に、修天爵書堂は約250年の歴史に幕を下ろした。『日本庶民教育史』によれば、修天爵書堂は三重県では最古、日本でも記録に残る限りで10数番目に古い寺子屋である。その意味では、山名家の寺子屋「修天爵書堂」は、三重県庶民教育の草分けであったといえる。
しかし、山名家は寺子屋師匠とは別の顔があった。藤堂家初期の歴史をまとめた『宗国史』所収「大通公以来世蔭年表」には、「追加」として「山名寿庵 百五十」とある。「大通公」は藩祖高虎の子高次(延宝4年・1676年没)のことで、「百五十」とは知行150石の意味である。つまり山名家は、当時既に藤堂家から禄を受けていた。また『津市文教史要』には、「義遠の子政吉、元禄八年伊予町稲荷神社別当を命ぜられ、社傍の地を賜ひ、且神社修覆料として毎年稟米十俵を給せらる」とある。義遠は山名家家譜によれば伊勢山名家初代義隆の子であり、政吉は山名家最大の学者山名政胤(まさたね)の父である。「命ぜられ」とあるが、命じたのは藩主藤堂公であろう。「伊予町稲荷神社」は、『三国地誌』に「稲荷祠 貞享元禄年間造営 並ニ岩田村」とあるのがそれであろう。当館貴重資料「津市古地図」には、城から岩田橋を渡って伊予町を少し下り、路地を右手に折れた所に「稲荷社」とある。小さなお寺くらいの広さである。現在の本町にある西元寺の北東側あたりにあたる。『津市史 第三巻』には、この「稲荷祠」は三代高久が「ちょう愛した南部氏の信仏に発し」創建したもので、「稲荷は後代までも藩主の参拝が行なわれて、特別崇信の社とされた」とある。
いずれにせよ山名家は、三重県最古の寺子屋の師匠であり、藤堂家ゆかりの神社を管理していた家柄である。その蔵書の一部は昭和16年当館に寄贈され、幸いに戦災を免れた。それが今の「山名文庫」である。

2 山名政胤

山名政胤の名は、国学者荷田春満の弟子として世に知られている。荷田春満(かだのあずままろ)は国学者で、松坂の国学者本居宣長の師である賀茂真淵(かものまぶち)の師として知られている。
山名文庫中に、写本『斉語童子問』8冊がある。『斉語童子問』は荷田春満の著した、『伊勢物語』の注釈書『伊勢物語童子問』のことである。出版されたのは昭和になってからで、『荷田全集』に翻刻されている。当館所蔵の写本『斉語童子問』はもとは上下各16冊であったらしく、『伊勢物語童子問』の主に前半部分しかない。残りは散逸したと思われる。
写本『斉語童子問』について、2点指摘する。第1は、翻刻『伊勢物語童子問』との相違である。翻刻『伊勢物語童子問』は賀茂真淵の清書本を翻刻したものであるが、写本『斉語童子問』とは内容に若干の相違がある。文言・表記の相違だけでなく、数行にわたる脱落等がしばしばみられる。第2は、筆写者についてである。荷田春満研究者の三宅清や城崎陽子は写本『斉語童子問』を山名政胤筆と推測しているが、実際には二人以上の筆によっている。「上一」「上二」「上三」「上八」の4冊は山名政胤の筆跡であるが、「上五」「上六」「上七」は明らかに別人の筆跡である。但し、それらに朱筆で加えられた校訂の文字は政胤の筆跡である。「下二」については冒頭のみ政胤で、あとは別人の筆跡である。あるいは当時の政胤に門弟がいて、残りを筆写させたのかもしれない。
政胤は自分の蔵書に蔵書印を捺さず、記名もしなかったようである。山名文庫中には、政胤の署名のある資料は2点しかない。『犯過日記』と題された資料は、実は「服暇令(服忌令)」という書の写本であるが、末尾に「宝永7年(1710)伊勢神宮禰宜鵜飼大夫辰栄から借りて写した」意の奥書末尾に、署名・捺印がある。もう1点は『女今川』で、これは女性向け道徳書『女今川』(貞享版)の写本であるが、末尾に「蘭斎書」とある。「蘭斎」とは政胤の号である。この2点は内容・字体とも異なってはいるが同一人の筆跡であり、政胤自筆と断定してよいと思う

『犯過日記』『女今川』

昨年、子孫の方から山名家の資料を十数点追加寄贈していただいた。その中に、政胤自筆と思われる興味深い資料が2点含まれていた。1点は『断片』と仮題をつけた4枚中の1枚、「芙蓉峯記行」である。これは、山名政胤自筆断片であり、「富士山行記」冒頭の草稿である。 
昨年城崎陽子は、京都伏見区東丸神社所蔵の山名政胤著「富士山行記」草稿を発見し、翻刻・発表した。これは宝永6年(1709)夏に政胤が富士山に登った時の登山記である。『断片』中の「芙蓉峯記行」は、冒頭のみの数行ではあるがほぼ同文である。罫紙は版心に「霊淵蔵」とあり(「霊淵」も政胤の号のひとつである)、政胤の罫紙である上、筆跡も『女今川』『斉語童子問』と酷似している。「富士山行記」は富士登山記としても非常に古いものであり、流麗に綴られた和文に自詠の漢詩と和歌をちりばめた、紀行文としても第一級の作品といえる。(次章に続く)

『断片』より「芙蓉峯記行」部分

「富士山行記としごろのねがひにてふじの山ミんとて宝永つちのとのうしミな月八日まだ夜ふかきにやど越いづ。もとより友とする人もおほく又かりそめのゆきかひぢとおもへどすミなれしさとをいづるハいとおぼつかなし。(後略)」
『山名政胤筆「富士山行記」の翻刻と考察』(城崎陽子著 国学院大学 2005)より

3 山名政胤著『奥の細道跋』

月追加資料から紹介するもう1点は、松尾芭蕉『奥の細道』の写しの後に跋文のように綴られた短文である。これは『官職浮説或問』という資料の後半にあり、その末尾5ページに書かれている。署名はないが罫紙は「霊淵蔵」、筆跡も「芙蓉峯記行」『斉語童子問』とほぼ同じである。

唐詩(からうた)詠う者は和歌を「女(おなご)らし」と言い、和歌(やまとうた)詠ずる者は「詩作る者は異曲をなす」と言い、連歌師は俳諧を卑しみ、俳諧師は連歌をさみす[卑しめる]。「我が家のほとけ尊し」とて我する事を手ぼめにして、ゑせぬ[できない]ことをそしり、人情のある所とは言いながら、風雅の道にくらければなるべし。天に日月星辰あり、地に山川草木あり、人に士農工商あり、理一萬殊なることを知らば、その間に是非は無かるべし。

冒頭、上の文章から始まる前半は文学論・文人論で、世上の文人たちの狭量と強欲を痛烈に批判し、大切なのは風雅を愛する心であって、詩歌を詠み文飾を飾ることではない、等と述べている。

世には詩歌連俳を専(もっぱら)とする人の、利を貪り名を求め、人の情け世の哀れをも知らず、媚びへつらいて潜上を好み、自をほめ他をそしりて、風雅の実にうとき者有り。詩作らず歌詠まず、連歌俳諧をもせぬ人の、古をたずね新を知りて、物事に感情深く四時の移り行くさま、世経の憂い喜びあるごとに、深く心を用いて風情あまり言わぬは、言うにまされる人も多かめれば、専は此の風骨有りて彼の詞花あるをや、「花実兼ね、体用備われり」とや言うべき。

後半は松尾芭蕉と『奥の細道』に対する評価で、いずれも絶賛している。

俳諧の中興宗匠芭蕉翁は、風雅の細みに倒れ、俳を重うし世を軽うし、家を人に譲りて行脚斗藪[僧]のごとく国をさそらいありきて、果ては世をあはうみ(淡海=近江)の石山の奥にかすかなる庵結びて、骨は粟津の義仲寺木曽将軍の塚のほとり埋(うず)みぬれど、埋もれぬ名は世に留まりて、「翁」とさえ言えば「此の人」と知る事も、其の道を惜しみ其の徳あるしるしなるべし。まことにその人となりを思うに、淡泊にして世に諂(へつら)わず、宗鑑・守武より已後、衰え来る道を興し、正風体に一新する事、其の功偉いなり、と言うべし。『奥のほそみち』は奥羽一覧の行記にして、其の文飾らずして感深く、其の句工(たくみ)ならずして美し。妖ならず俗ならず、自然にして古色多し。

この文章がいつ書かれたのかは明らかでないが、政胤が亡くなったのが享保19年(1734)で、『奥の細道』の刊行が元禄15年(1702)であるから、その間である事は確かである。
城崎陽子は荷田春満と政胤の関係を、「互いの才能を認め合いつつ結ばれた互敬的師弟関係」と表現しているが、「富士山行記」とこの「奥の細道」の跋文を読む限りでも、政胤の学識は十分にうかがえる。芭蕉の生まれた伊賀の隣国伊勢で、当代一流の知識人が『奥の細道』をどのように読んだのかの記録としても、非常に貴重な資料と言えよう。

『官職浮説或問』より

なお、本文翻刻にあたっては、句読点・かぎ括弧を適宜挿入し、仮名遣い・表記を表記を現代風に改めた上、難語句には(読み)[意味]を適宜加えてあります。

4 政総・政恒・政方・留三郎・義胤

家譜によれば、政胤の後、政満、政恒、政興、政方、政大と家督が譲られていく。政胤と政満の間には時間的に若干の開きがある。しかしここでは系譜への深入りは避け、現存する資料から確認できる人物を点描していくことにする。
政恒には出版された著書があったというが山名文庫中にはない。その代わり署名のある写本が2点ある。安永8年(1779)筆写の『公儀秘談録』と、『和漢朗詠集』である。「書道を隠岐大輔法眼に受く」(『津市文教史要』)とあるとおり、教科書どおりのたいへん美しい筆跡である。
政方は先に少しふれたが、「曽谷定景に就いて学び、住吉派の画を善くせり」(『津市文教史要』)とあるとおり、絵が上手であった。曽谷定景は津藩お抱えの絵師である。『文用例證』という本の間に、一枚の小さな雄鶏の水墨画がはさんである。「鶏既鳴忠臣待旦(鶏既に鳴きて、忠臣旦[朝]を待つ」と題された脇に、「明治四十一年・・・七十七翁虚舟先生山名政方試筆」と書かれている。追加資料中の『断片』にも、習作と思われる宮廷人の墨絵がある。署名はないが、おそらくは政方のものであろう。一方、先に紹介した『今体初学文範字解』には時間割表が書かれている。修文館のものであろうが、当時の学校の様子を伝えている。
政方には弟が二人いる。すぐ下の弟・吟作は章を改めて述べる。留三郎は政方の末弟である。『津市史』『津市文教史要』には「政方の子」となっているが、誤りである。津藩の大儒・土井[ごう]牙の門弟で、三村竹清の随筆「伊勢比事記」(『三重県郷土史談会会誌』所収)に[ごう]牙の思い出を語る「山名善譲先生」とあるのは、この留三郎の事である。後年、東京の「陸軍士官学校の教授に任ぜられ」(『津市文教史要』)、子孫の口承に日露戦争の英雄・乃木希典将軍の「息子さんを陸軍の学校で教えた」とある。乃木将軍の日記(『乃木希典全集』所収)には留三郎が乃木宅を訪れた記載があり、実際両者に交流があったことが分る。留三郎は、中国・宋の時代に編集された大歴史書『資治通鑑』に訓点を付けた学者として知られているが、他に編著書も多く、『錦絵脩身談』『皇朝史要』が山名文庫に収められている。一方、留三郎の蔵書は山名文庫にはない。
他に、家譜にない人名もある。写本『永正記』の奥書に、「宝永2年(1705)、山名氏政総が写した」意の奥書がある。同様に、『神道大意』は元禄13年(1700)、『倭姫命世記』は宝永3年(1706)の写本であるが、それぞれ政総の奥書がある。年代からすると政胤とほぼ同時期である。政胤が京や江戸・大坂で学者として活動する裏には、郷里で実家を守る人がいたはずである。政総はそういう立場の人ではなかったか。『神令』もおそらくは政総による写本であるが、「荒木是水先生に借りて写した」意の奥書がある。荒木是水は伊勢松坂の書家である。こういった奥書から、山名家の学者たちの他の文人・学者たちとの交流ぶりがうかがえる。
他に、写本『丘瓊山忠孝箴』の巻末には「嘉永七甲寅年 山名義胤所治」とある。嘉永7年(1854)といえば幕末であるが、その頃山名義胤という人がいたのである。しかし、家譜にその名は見えない。ちなみにこの『丘瓊山忠孝箴』は、中国・清朝の詩人丘瓊山の『忠箴』『孝箴』という道徳書に、加藤中孚という人が注釈を加えた本で、出版はされていない。加藤中孚は久留米藩士で没年は享保7年(1722)である。写本の筆跡は政胤のものによく似ている。断定はできないが、恐らく政胤自筆写本であろう。いずれにしても、稀書である。

5 清虚堂・山名吟作

山名文庫の資料中、山名家の人で蔵書印を捺しているのは政方・政大・吟作の3人である。それ以外の人の蔵書印はない。3人のうち、政方と政大は家督相続者であり、蔵書全部の所有者なので蔵書印の有無は問題でない。それに対して吟作の蔵書印の捺された資料は事情は異なる。他の資料が山名家累代の集書であるのに対し、それらは吟作個人の集書と考えられるからである。その分量は山名文庫全体の約3割を占めている。印は「山名氏蔵書清虚堂」である。
以上書いた事は、実は長い間当館でも不明であった。家譜には、吟作の戒名はあるが俗名がなかった。ただ、戒名中に「清虚」という文字があっただけである。子孫の方の口承にも「この方の死後、本家が蔵書を預かった」とあっただけで、それ以上のことは分らなかったのである。
「山名氏蔵書清虚堂」という蔵書印が政方の弟・吟作のものである事は、山名文庫以外の資料によって判明した。当館所蔵の地域和漢籍資料に『伊勢地誌雑纂稿』なる資料がある。「清虚堂主人」によるその草稿は、右下がりのたいへん個性的な字体で書かれていて、山名文庫中の「清虚堂主人」による他の筆写本(『官社祭神記』『官位不審問答』『皇国地名解』『いろの図解』『詩訣』『虎利拉伝染病予防法私記』『地理初歩地球儀問答并歳時記』等)と同じ特徴を示している。その『伊勢地誌雑纂稿』中に、草書で書かれた「山名吟作」という名があり、文脈から筆写者「清虚堂主人」その人を指している事が判明した。同じく地域和漢籍資料に『三重県地誌要略』なる資料があり、著者は「山名[ぎん]作」とある。この「山名[ぎん]作」という著者の住所が、家譜の「清虚」という文字を持つ政方の弟のそれと一致する。以上の2点から、「清虚堂」=「山名吟作」であると断定できたのである。ちなみに「吟」という名は、『三重県地誌要略』には「口」偏に「金」という文字になっている。両者はあるいは通用したのかもしれない。
山名吟作がいかなる人であったかは、はっきりとはわからない。ただ、初等教育に携わった人であった事は確かである。『三重県地誌要略』は明治21年(1888)出版の学校教科書である。地球の公転から三重県各地域の現況に至るまで、現在の地理教育の枠組を大きく越える内容を持つ、たいへん個性的かつ意欲的な教科書である。『伊勢地誌雑纂稿』と『地理初歩地球儀問答并歳時記』は、執筆のための抜き書きのような内容である。また、『官位不審問答』は、「大和國宇陀郡神杖小学」の罫紙に書かれている。他にも、彼の蔵書印の捺された資料には、明治十年頃の小学校用の教科書や指導書が何点かある。
また、先にふれた『伊勢地誌雑纂稿』は内務省の罫紙に書かれている。その後半の「明治二十一年度 借用書類控 清虚堂主人」には「内務省地理局出張員 山名吟作」との肩書きが記されている。『内務省人事総覧』を見ると、当時の職員中に吟作の名はない。「出張員」とは、今で言う「嘱託(職員)」のような存在だったのであろう。
『皇国地名解』はかなり大部の草稿であるが、出版は確認できない。吟作の蔵書には他にも、文学や兵学関係の秘伝書、女子教育に関するものなど、まとまった集書が見られる。『三重県地誌要略』の他はこれといった業績を残さなかった吟作だが、残された草稿と蔵書は、彼もまた山名家の一員らしい学びの人であったことを示している。不明な点は多いが、当館資料で分かることには限りがある。山名文庫の3割強を占める「清虚堂」が特定できた事に、今は満足したい。

『三重県地誌要略』より

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