津市の郷土史家・梅原三千(うめはら・みち)が執筆した『津藩史稿』の翻刻(活字化)を行っています。4か月程度ごとに1巻分ずつの公開を予定しています。
次回は3月頃に第10巻分の公開を予定しています。

凡例

翻刻にあたっては、原史料の意味を損なわない程度に、以下のように取り扱っています。

  • 段落はなるべくそのまま再現するようにしましたが、改行位置は必ずしも原史料とは一致していません。
  • 漢字は原則として常用漢字を使用することとし、旧字などの異体字についてもなるべく標準的な字体に改めています。
  • 変体仮名や合字は平仮名に改めましたが、主に引用文中で助詞に用いられている漢字は原文のまま表記しています。
  • 誤字・当て字は原則としてそのままとしています。
  • 書き損じと思われる箇所は■とし、「(ママ)」を付しています。
  • 判読できない文字は□もしくは[ ]で表記しています。
  • 欄外等に記された補足は文字のサイズを小さくして表記しています。
  • 図については省略しました。

内容 (リンクのある項目は翻刻したものをご覧になれます)

※ 章や節の番号が一部重複していたり、連続していない場合があります。

巻別

章節別

第1章 藩祖高虎

第2章 第二代高次

第3章 第三代高久

第4章 第四代高睦

第5章 第五代高敏

第6章 第六代高治

第7章 第七代高豊

第8章 第八代高悠

第9章 第九代高嶷

第10章 第十代高兌

第11章 第十一代高猷

第12章 第十二代高潔

津藩史稿について

『津藩史稿』は全29巻。津藩初代藩主の藤堂高虎(たかとら)の幼時から、第12代藩主・高潔(たかきよ)の時の藩債処分に至るまでのことがまとめられています。カーボン紙を用いて和紙に手書きしたものと思われ、どの程度の部数が作られたのかは不明です。現在分かっている範囲では、29巻を一括して所蔵している図書館は三重県立図書館のみです。
29巻の構成としては以下のようになっています。このうち高虎の部分については、西山光正氏が現代語訳され、『実伝藤堂高虎』として刊行されています。
第1章 藩祖高虎 → 1巻から9巻
第2章 第二代高次(たかつぐ) → 10巻から11巻
第3章 第三代高久(たかひさ) → 12巻から13巻
第4章 第四代高睦(たかちか),第5章 第五代高敏(たかとし),第6章 第六代高治(たかはる) → 14巻
第7章 第七代高豊(たかとよ),第8章 第八代高悠(たかなが) → 15巻
第9章 第九代高嶷(たかさど) → 16巻から17巻
第10章 第十代高兌(たかさわ) → 18巻から20巻
第11章 第十一代高猷(たかゆき) → 21巻から28巻
第12章 第十二代高潔 → 29巻
なお、上記の内容は全て「第1編 累世紀要」の下にまとめられていて、第2編以降の文章は存在していません。このことからすると『津藩史稿』が未完であった可能性もあります。
梅原は、徹底的に記録を掘り起こし、調査を重ねてから執筆するというスタイルをとっていたといい、このこともあってか梅原の生前には津市史は完成しませんでした。(戦後になって、梅原が残した原稿を元に、西田重嗣(しげつぐ)が津市史を完成させています。)このスタイルは『津藩史稿』でも垣間見られ、資料の引用や考証が頻繁に見られます。

梅原三千について

梅原三千は、元治元(1864)年一志郡久居町戸木に生れ、明治17(1884)年に三重県師範学校の高等師範学科を卒業しました。その後、安濃郡養正小学校四等訓導として教員となりますが、教員生活は三重県に留まらず、明治23(1890)年には大阪府、明治24(1891)年には長野県、そして明治25(1892)年には三重県へ戻り、久居尋常小学校訓導となります。明治29(1896)年には三重県収税局へ入るものの、また学校へ戻っています。
明治31(1898)年には飯南郡書記となりますが、官界に入ってからも明治38(1905)年に栃木県属、明治39(1906)年に秋田県属とめまぐるしく転任をくり返します。明治43(1910)年頃には朝鮮総督府に入り、咸鏡北道(かんきょうほくどう)へ赴任しました。しかし大正2(1913)年2月、上司と対立し職を去り帰国しています。
津へ帰ってからは年金生活に入り、三重新聞の顧問となりますが、翌年には辞しています。勧学院(高田高校)の教員となったほか、また大正12(1923)年から昭和3(1928)年、昭和6(1931)年から8(1933)年まで、津城址の一角にあった藤堂家事蹟編述会や、津市役所の市史編纂局で市史の調査にあたりました。
晩年は白内障に冒され、昭和18(1943)年10月、市内の病院で手術を受けますが、なかなか視力は回復せず、大きな字で手習いした紙が残っています。またこの頃から、狂歌のようなものを書き始めています。また戦争が激化してくると出版も思うにまかせず、和紙にカーボン紙を使って手書きした私製本を作るようになったようです。
昭和20(1945)年7月、津市は米軍の空襲を受け市の中心部に多量の爆弾が投下されました。軍や市役所は各家庭に防空壕を掘ることを勧めますが、梅原家に防空壕はありませんでした。「わしにはアメリカの爆弾は当たらん」と言って壕を掘ることを拒んだようですが、丹精こめて作った庭を、壕堀りで壊すことを嫌ったのだと言う人もいます。
爆撃が始まると、一家八人は押し入れに隠れましたが、付近に爆弾が落ち梅原を含む四人が亡くなりました。遺体は養正小学校の講堂へ集められ、生き残った家族はそこで線香を供えました。その講堂も数日後の焼夷弾攻撃で燃えてしまい、遺体の行方は分かりません。家族は下着を燃やして、その灰を墓に入れたそうです。
梅原の死後、残された原稿類は家族によって友人の郷土史家・鈴木敏雄へ託され、鈴木の死後に三重県立図書館に寄贈されました。

梅原三千関係資料目録