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第6回企画展 「三重の同人誌展 第2回 短歌・俳句・川柳・連句」

三重の同人誌(短歌)-短歌の譜-

万葉学者で歌人で高名な佐佐木信綱は鈴鹿の出身であり、「心の華」(のちに「心の花」)を主宰した。戦後、これに誘発されるがごとく、たくさんのグループから多くの歌誌が創刊されて、戦後の精神的空白を埋めようと音たてて滾(あふ)れるのがうかがえた。

即ち、「金雀枝(えにしだ)」は昭和2年創刊水谷一楓(いっぷう)主宰で、戦中戦後をつらぬき現在に至っている。印田巨鳥(いんだきょちょう)の主宰した「志支浪(しきなみ)」は昭和11年創刊し、同22年に終刊となっている。

「抒情派」は尾上祝生が束ねて昭和21年頃から出たらしいのだが、10号を超えた頃に消えてしまった。昭和25年に河崎五十(ごじゅう)が創刊した「やどりぎ」は現在も健在。「形象」水谷洋編集、「無派」浅野良一たちの編集、何れも昭和30年の創刊だがいまはない。

「伊勢平野」「ぽせいどぉん」「暖流」「いせえび」「皇学館短歌」「短歌教室」「歌と人」「土」「極光」。

そして、のちに俳句へ転じた渡瀬満茂留(まもる)が主宰した「真澄」は「三重歌人」へと発展したのだが、昭和23年に廃刊した。

戦後の不安定な時代に、心の支えを短歌に求めた人たちの営為は、このように多彩に動いたのであった。

振り返ってみると、これらの同人雑誌に拠って短歌に親しんだ人たちの何と多かったこと。いま安定して発行されている歌誌に、かって若き日に奮い立った短歌の流れが基盤となっているように思われてならない。

三重の同人誌(俳句)-俳句の土壌-

三重県は、俳句県である。俳祖守武俳聖芭蕉、そして新興俳句の先達嶋田青峰

しかしそういう系譜には関係なく、戦後を迎えた。「うきぐさ」は戦中から活動をしていて戦後は大いに活躍をした。

「阿者良伎(あわらぎ)」は昭和20年に始め同30年まで発行をつづけ、主宰谷禿象(たにとくぞう)は〈まこと〉を唱導した。この雑誌は主宰手作りの小型版、会員へは無料で配布したのが、珍しい。

渡瀬満茂留(まもる)の「琥珀」は山口草堂の門。

ホトトギス系の「年輪」は昭和32年からの誌名だが、同20年創刊長谷川素逝の「桐の葉」以来の歴史を有している。

「みその」(のちに「帆」)の指導者は、嶋田青峰の弟的浦であった。このグループは昭和24年山田赤十字病院の入院患者が同人となって出来上った。的浦は病院の事務長であった。いわゆる前衛俳句の県内における萌芽期ともいうべき時代を担ったグループであった。

自由律俳句のグループとして、親井牽牛花(おやいけんぎゅうか)が代表の「俳句新風」は昭和25年の創刊である。このグループは口語俳句、前衛俳句、現代詩などとの交流が盛んであった。

県内の俳句同人誌を俯瞰するとき、昭和30年代に入るまでの動向が一番重要ではなかったかと思料される。

三重の同人誌(川柳)-戦後の流れ-

本県川柳会は、名古屋及び関西の川柳界の影響を強く受けていると言えよう。

大正10年創立になる松阪市の「川柳鳴人会」は、戦後復活したが現在は活動していず、機関誌も保存されていない。

昭和22年、津市で名古屋番傘川柳会に属していた松浦寿々奈が「ひさご会」を創立、「津番傘川柳会」一時「阿漕川柳会」を経過して「三重番傘川柳会」に至る。同じ番傘系に、昭和41年、名張市で福田昭人が創立した「名張番傘川柳ふりこ会」、同市桔梗が丘で昭和57年に五十嵐修らが興した「番傘桔梗川柳会」の二柳社が活動している。

昭和29年に津市の田中民矢(たみや)が創立した「三重川柳会」は「阿漕川柳会」「伊勢川柳会」「せんだん川柳社」と分離・合併する時期を経過してのち、現在の「三重川柳協会」に至っている。

四日市市では昭和34年に発足した水谷一舟らによる「四日市」が一年程で休刊した後、同45年保地桂水らが「四日市川柳会」を興す。

鈴鹿市では昭和27年に大阪市の「天守閣」に属していた寺尾新児らが興した「麦飯川柳会」が10年程活動した後、昭和62年に新万寿郎(あたらしまんじゅろう)が「鈴鹿川柳会」を創立し現在に至っている。

三重の同人誌(連句)-第9回国民文化祭を期に-

平成6年の「第9回国民文化祭みえ」に連句も参加することとなり、これへ向って、平成3年1月、三重県連句協会が結成され、松濤軒4世名古則子をむかえて、各地に句座がひらかれた。それまでは、橋本石洲(せきしゅう)(1902年から1986年)が一人孤塁を守っていたにすぎなかった。

以上のように各句座の日まだ浅く、連句誌としての同人誌は発行されていない。ただ、三重県連句協会から会報が発行されていることと、「連句作品集」が2回刊行されているのがこれまでの唯一の活動といえよう。

遠く歴史をたどれば、荒木田守武(1473年から1549年)、大淀三千風(1639年から1707年)、松尾芭蕉(1644年から1694年)、三浦樗良(ちょら)(1729年から1780年)、という偉大な大先達が俳諧之連歌(連句)を伝えてきているのである。

明治になり正岡子規が自ら連句をやりながら、これを文学として認めなかったことに、連句が今日まで広く知られなかった一因があるといわれている。

しかし、橋本石洲は、独吟をつづけて三重県での連句の灯を絶やさなかったのである。

今回のこの企画を期に、更に連句の盛んならんことを希うこと切である。

近い将来、同人誌などを発行して連句が多くの人たちに、親しまれてほしいものである。

展示期間 平成8年3月1日(金曜日)から3月15日(金曜日)