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第8回企画展「竹川竹斎」

1 文人竹齋 - 多芸多才の人

竹齋の母は国学者荒木田久老(ひさおゆ)の娘、叔父久守も国学者として知られていた。早くから久守に学んだ竹齋は、和歌に秀で、『竹齋大人歌集』『吉葛集』などを編み、『月瀬紀行』など多くの紀行を残した。

また、絵にも才能があり、『鷺図』などの作品を残している。この図に「碧水魚遊」と書いた玄々斎は、11世千宗室のことである。竹齋は宗室を師として、茶道にも造詣が深かった。

2 海舟と竹斎 - 政治への関心

竹斎は、勝海舟と親交を結んでいた。海舟がアメり力に赴く折、帯びていった刀は、竹斎の贈ったものであった。その刀と共に撮った写真を添えて、海舟は竹斎に手紙を送っている。

竹齋には時代の先を見通す目があり、日本を護するために海防の必要を痛感していた。その思いを込めて書いたのが、『護国論』『護国後論』であった。慶応2年(1866年)、竹斎は幕府に召しだされ、米の輸入・蒸気船による海運の促進などを建言した。帰途、大阪まで軍艦長鯨丸に乗せてもらう。その折の日記が『浮宝の日記』であった。

3 竹斎と射和文庫 - 庶民教育の意欲

竹斎には、若くより文庫設立の思いがあった。嘉永元年(1848年)、文庫書院を創建して、書籍・古書画・古器物を納めることとする。文庫には、竹斎の姉の夫西村広美・竹斎の弟竹口信義・国分信親から、それぞれ千巻ずつを納本してもらうことになり、鳥羽藩からも助力を得ることになる。慶応2年(1866)には、『射和文庫射陽書院略目録』を出版、一万数千巻の書物および器物の概要が寄贈者と共に記されている。その中には、大久保一翁・千宗室・足代弘訓などの名が見える。しかし、明治以降、さまざまの経緯があって、現存は約三千冊が竹川氏によって保存されている。

4 伊勢商人としての竹斎 - 広範な興味と惰報収集力

竹齋は、文化6年(1809年)に竹川家の分家東竹川家に生まれた。早くから商人としての修行をした竹齋には、商業を営む上で、情報の収集と整理が何よりも重要であることを自覚していた。

あらゆる種類の情報が詰まっている『反古帳』は、竹齋の情報収集に対する強い思いが感じられる。『神足歩行術』の巻物も、竹齋が商人として情報収集に役立てようとしたものであろう。また、竹齋は、備忘としての日記の重要性をも十分に知っていた。現在75冊という膨大な日記は、竹齋研究の上で欠かせない資料である。

商人としての竹齋は、早くから外国に目を向け、横浜からの貿易を始めるのであるが、横浜で事に当たったのは弟の竹口喜左衛門信義であった。その往復書簡も数多く残されている。

5 実業家竹斎 - 郷土産業の振興

竹斉は、郷土射和の繁栄を常に念頭に置いていた。田を増やして村の衰微を救おうと、池を造ったり、以前からある池を改修している。また、桑や茶の栽培を奨励し、やがて茶は竹口信義によって輸出されるようになる。更に、竹川家の縁者沼波弄山(ぬなみろうざん)の万古焼を継承しようと射和万古を始めてもいる。 幕末の混乱の中で、茶の輸出、万古焼の生産は中絶してしまうが、竹齋の先見性は再評価されねばなるまい。

展示に際し、資料の一部を借用しました。

展示期間 平成8年11月3日(日曜日)から11月17日(日曜日)