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第17回企画展「土井[ごう]牙と津藩の学芸」

津藩校「有造館(ゆうぞうかん)」第5代の督学(とくがく)土井[ごう]牙(文化14年(1817年)から明治13年(1880年))は、近代的漢学の大家としてその学問において、また詩文・書画等、文人・趣味人として、また勝れた教育家として知られ、多くの著述を残しています。また、その学問を伝える貴重な蔵書は、土井家より寄贈を受け「土井文庫」として当館に所蔵しています。

今回の企画展では、その著述と蔵書などの典籍類の展示を中心として土井[ごう]牙と津藩の学芸に焦点をあてて紹介します。

土井[ごう]牙さん早わかり・あれこれ

1-1江戸時代の後期に津市に生まれ、津藩の学校(「有造館」)の督学(校長先生)になった人です。

今から約180年前(文化14年(1817年))に津市の西町(今の津市中央)に生まれました。家は、代々お医者さんで、お父さんは、津藩の儒者(じゅしゃ)(漢学者)でもありました。[ごう]牙さんも、数え年の4歳から勉強を始めました。

そのころ、『千字文(せんじもん)』という漢字の勉強の本にはない「麹(こうじ)」という漢字を町で見て、その読み方をたずねたというエピソードがあります。

若くから津藩の学者として活躍し、のちに藩の学校(「有造館」)の督学(校長先生)になり、藩の教育に力を尽くしました。

[ごう]牙さんは、明治13年(1880年)に64歳でなくなるまでの一生を西町の家ですごし、ここでたくさんの門人に学問を教えました。その家の跡には「土井[ごう]牙先生旧宅跡」と彫られた石碑が建っています。

1-2中国の古典や歴史を研究しました。

[ごう]牙さんの学問は、中国の古典や歴史書をたくさんの古い資料を使って、科学的にその事実を明らかにする「考証学」です。『論語』や『孟子』の研究や、中国の地理の研究に力を注ぎました。『太平寰宇記図(たいへいかんうきず)』という非常に正確な地図などを作っており、昔の中国の地理に一番詳しい学者として有名でした。

1-3『資治通鑑(しじつがん)』の校正(こうせい)に力を尽くしました。

『資治通鑑』は、今から900年ほど前、中国の司馬光(しばこう)という人が書いた中国の歴史書です。この本は、正確な内容で知られ、中国の歴史を学ぶにはとても大事な本です。294巻というたいへんな分量のもので、それまで日本では出版されていませんでした。京都の畑柳安(はたりゅうあん)という人がその出版にかかりましたが完成せず、津藩でこれを引き継いで、より完全なものにして出版することになり、藩の学者18名がその仕事にあたりました。

校正とは、文章の写し間違いや、板木の彫り間違いなどを直して正確なもとの文章にすることで、たいへんな学力がないとできない仕事です。[ごう]牙さんは、その責任者としてこれを完成させました。

2-1竹を愛し、竹の絵をたくさんかきました。

[ごう]牙さんは竹が大好きで、家のまわりにいろいろな種類の竹を植えました。障子に映った竹を手本にして、墨でたくさんの竹の絵を描いています。竹の絵の研究にも熱心で、研究書も書き残しています。

2-2漢文のカルタを作りました。

津藩では、漢文を学び始めた子どもたちが早く漢文や漢詩を覚えることができるようにと「百人一首」と同じように百枚の漢文のカルタをつくり、ゲームのように楽しんで覚えられるようにしました。カルタは非常に盛んに行われ、いろいろな漢文のカルタが作られました。

今も[ごう]牙さんが作ったカルタの実物がのこっています。

2-3「五目ならべ」を全国にひろめました。

今、私たちが楽しんでいる「五目ならべ」は、江戸時代の終わり近くにブームになったようです。

「五目ならべ」は、「五石(いつついし)」などさまざまな呼び名がありますが、[ごう]牙さんは、「格五(かくご)」と名付け、そのルールや理論、そして実戦譜(実際の闘いの記録)の本(『格五新譜(かくごしんぷ)』)を著し、出版しました。

また[ごう]牙さんの塾に各地から集っていた門入たちによって「五目ならべ」は全国にひろまりました。(「五目ならべ」は、現在は「連珠(れんじゅ)」の名で呼ぱれています)

参考文献早川嘉美「連珠のルーツ」1から4((『連珠世界』46巻7号から10号)

3-1[ごう]牙さんの勉強のモットーは「大読書」です。

津のお城に[ごう]牙さんの漢詩を彫った石碑が建っています。

その詩は「書生に示す」という題で、学生のために作ったものです。そこには「たくさんの本を読む人は、聖人・賢人というべき立派な人である。努力だけが自分の力を補うことができる。だから朝も夕も、そして夜は明かりのもとで精神を集中して本を読みなさい。そうすれぱさまざまな多くの本を読み解くことができる。」と書かれています。

[ごう]牙さんは、まず第一に読むべき本は『資治通鑑』だと言います。そして何度も読むようにとも言っています。しかも読む時には大きな声で音読をさせました。[ごう]牙さんの家の前を通るといつも、塾の生徒たちが読む大きな声が聞こえた、といいます。

3-2[ごう]牙さんの学問は、[そく]水舎にひきつがれました。

明治13年に[ごう]牙さんがなくなったあと、次男の楓井古斎(かいでこさい)という人が、[ごう]牙さんの学問をついで、「[そく]水舎」という漢学の塾を西町の[ごう]牙さんの家に開設しました。「[そく]水舎」という名は、[ごう]牙さんが最も尊重した『資治通鑑』を書いた司馬光という人が、中国の[そく]水郷という所の人で、「[そく]水先生」と呼ばれたことから名付けられました。この塾は、楓井古斎さんがなくなったあと、[ごう]牙さんの弟子の芽原白堂(ちはらはくどう)さんが自宅で引き継ぎ、昭和4年まで続きました。約50年の間、たくさんの人がここで漢学を勉強しています。

[ごう]牙さんが督学をつとめた津藩の学校「有造館」の門が、現在は津城の跡に建っています。注:[ごう]の字解:「贅沢(ぜいたく)」の「贅」の字の下半分の字「貝」の代わりに「耳」。

[そく]の字解:さんずいへんに、つくりが「束」。

展示期間 平成11年11月21日(日曜日)から12月12日(日曜日)