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第18回企画展「館蔵資料展 近世・三重の旅」

2000年8月15日(火曜日)から10月15日(日曜日)

9時から19時(土曜日・日曜日・祝日から 17時)

県立図書館2階文学コーナー

江戸時代は「旅の時代」であったといわれています。寺社参詣に、温泉湯治にと庶民も旅を楽しみ、旅の文化が華ひらきました。―交通・旅館・観光―、現代の旅行システムの多くが江戸時代に整備されました。江戸時代の資料をみるとあらてめて共通点の多いことに驚きます。

三重県は、京と江戸をつなぐ幹線道路の東海道、参宮で賑う伊勢に通じる諸街道、南は熊野街道と、旅の文化の地です。今回はその一端を「近世・三重の旅」として、館蔵資料で振り返ってみたいと思います。

展示資料

1本居宣長自筆先触(さきぶれ)

晩年、紀州藩に仕えた宣長が京都から松坂に帰る際に各宿場に出した先触れ。署名の佐那嘉介は実在せず、家来名で書いたもの。

I道中記

旅の案内書(ガイドブック)が「道中記」です。私たちが旅行にでるとき頼りにするガイドブックと同じ目的で江戸時代にも様々な案内書が出版されました。その「道中記」がいつごろから出版されるようになったかはわかりませんが、江戸時代後半には「道中記」「道中細見記」「道中略記」などの書名で数知れず出版されます。多くは携帯に便利な小型の本で、街道添いの宿場名と里程(道のり)を記した非常に簡略な内容のものや、全編絵で街道を描いたものなどから、街道地図・名所や名物・風景絵図・旅篭(はたご)・人馬の賃金・旅行の心得など旅に必要な知識を一冊の中に親切にまとめたものまであります。まさしく旅の実用書といえるでしょう。旅の下調べに、また旅の懐中にあってと、江戸時代の人々もガイドブックを便利に使っていたのでしょう。

なお、道中記の仲間に『...講』と題する道中の旅篭名ばかりを記したものがあります。文化文政年間(1804年から1829年)ごろになると「浪花(なにわ)講」など、多くの旅宿組合が結成されました。今日の協定旅館のようなものです。<安心して泊まれる旅館>リストというところでしょうか。展示の『繁栄講』などは全国に伊勢神宮のお札を配って歩いた伊勢の御師の信用をもとに成り立った旅宿案内で、御師・旅篭・出版書肆の関係など興味深いものがあります。

2新撰伊勢道中細見記

宝暦13年(1763年)刊

参宮の心得・道中の道具・大坂よりの本街道・大和越え・阿保越え・宮巡り・朝熊道・おおむ石道などを内容とした道中記。

3伊勢御師定宿繁栄講

安政3年(1856年)序

諸街道の旅館(はたご)案内。「御師より真実(まごごろ)ある駅舎(はたご)を撰て定宿附を」板木に彫ったとある。

II名所図会

江戸時代後半、名所を解説し、多くの挿画を付して紹介した『...名所図会』と題した通俗地誌が夥しく出版されました。

秋里籬島(あきさとりとう)著の『都名所図会』(安永9年・1780)に始り、江戸時代だけでも、全国各地30種以上、明治に至っても その出版は続出しました。

内容は、名所・寺社・地名の解説はもちろん、古歌・歴史・伝説など読者の興味をひくさまざまな記事からなり、詳細でかつ平易な解説と見開きの細密な実景挿画によって娯楽的な読み物として読者に歓迎されました。その背景には当時の庶民の旅行ブーム・文化文学熱があり、著者も出版書肆もまたそれに応えるべく内容の充実に努めました。

「名所図会」は、旅行の案内記という実用書としての役割だけではなく、地誌としての利用価値の高いものでした。しかし一方では、むしろ『唐土名勝図会』(文化2年)のような到底行くことのできない外国の名所を案内した名所図会まで出版されたことでもわかるように、居ながらにして、はるかな旅を楽しむことができる教養娯楽の書であったということができます。当時の人々にとって「名所図会」を見ることは、ちょうど今日、私たちがテレビの旅行番組を好んで視るのと同じだったかも知れません。

今日の私たちにとって、「名所図会」は、そのビジュアルな図や絵と記事とによって、はるかな江戸時代の日本の旅を体験させてくれる書でもあるとも言えるでしょう。

(※ 図会 = 「画を集めた書物」の意味)

4東海道名所図会

名所図会作家として著名な京の秋里籬島の代表作。寛政9年(1797年)に刊行された。画は地域ごとに委嘱したようで約30人の画家の協力を得ている。

5伊勢参宮名所図会

大坂の人、蔀(しとみ)関月が編んだ名所図会。寛政9年(1797年)成立、刊行。伊勢参宮道中の名所旧跡を多くの挿絵と古歌・古説などによって案内したもので、二見・志摩、近江の名所などについても記している。

III紀行文詩

紀貫之『土佐日記』を思うまでもなく、紀行文学と旅日記は重なり合い長く文学の伝統でもあります。文学としての紀行は、鎌倉時代の『十六夜(いざよい)日記』や『海道記』『東関紀行』などにその確立・展開を見、室町時代には作者に連歌師などが加わり多様化しますが、とりわけ近世に入ると旅は広く万人のものとなり、有名無名にかかわらず多くの旅日記や紀行を残しています。旅に出てその見聞を、またその感慨を筆にしたい、人に述べ知らしめたいと思うのはいつの時代にあっても共通の心情です。

江戸時代の紀行は、和文のもの、漢文のもの、いずれも全国各地の旅に及びますが、特に三重県は江戸・京都の間にあり、また伊勢参宮にと、この地を通過し、また訪れた学者・文人・墨客の多い地のため、それらの中に三重県の各地にふれた記述を多く見ます。近世の紀行に記された三重県を追跡してみるのも興味深いものです。また、三重県は国学・漢学にすぐれた学者を多く輩出しています。本居宣長や斎藤拙堂などをはじめとする紀行文・和歌・漢詩など、三重の文学に見るべきものが多いといえるでしょう。なお、旅はその土地だけでなくその地に人を訪ねます。紀行は、三重の文人の交流を知る貴重な資料でもあります。

6菅笠[すががさ](の)日記

本居宣長が門人や友人と共に明和9年(1772年)に、初瀬・吉野・飛鳥に旅したおりの紀行文。その学問的内容と風雅に富む擬古文は国学者の紀行文として高く評価されている。寛政7年(1795年)刊。

7伊勢紀行

向井去来(宝永元年・1704歿)が、妹千子(ちね)を伴って伊勢へ旅した俳諧紀行で、発句・連句・和歌などからなる。芭蕉跋。嘉永3年(1850年)に去来百五十回忌追福として刊行された。

8勢遊志

京の儒者伊藤東涯が愛弟子の奥田三角(津藩儒)の招きにより、享保15年(1730年)に伊勢に遊んだ折の記。同年の刊行。京から津を経て、奥田邸に逗留、櫛田川に遊び、なお鸚鵡石を訪ねる。

9西遊紀程

著者は大槻磐渓。著名な蘭学者磐水の次男で仙台藩の儒官。文政10年(1827年)、江戸から伊勢・京・大和・高野・和歌山に至ったが、父の訃報に接して急遽江戸に帰った折の紀行。