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第24回企画展「三重の食文化 食材から考える」1

あいさつ

第二十四回企画展「三重の食文化-食材から考える-」展によせて

ようこそ、「三重の食文化-食材から考える-」においでくださいました。 このたびは、昨年(平成14年)の第22回企画展「三重の食文化」に続いて、今年も広く県民の皆さまに、三重の食文化についてご理解いただき、楽しんでいただければと思い、三重県立図書館との共催で、三重の食文化に関する図書展を開催させていただくことになりました。

三重県は気候温暖で、北から中南勢にかけて広がる伊勢平野では、1年中緑が絶えないと言われるほど豊かな畑作物がもたらされています。東側は伊勢湾・伊勢志摩のリアス式海岸・太平洋に続く広大な熊野灘に面して、限りない海の幸に恵まれています。北・西・南側は標高1,500mを越える鈴鹿山脈や大台山系とその間を流れ下る河川からの山の幸・川の幸にも恵まれて、豊かな食文化を育んで来ました。また、政治経済的には愛知県・岐阜県・滋賀県・奈良県・京都府・和歌山県に接していることから、都の文化や東国武士の文化が入り乱れ、食の文化においてもちょうど分水嶺の役割をして、発展してきました。

このような地理的・気候的・経済的な背景のもとに、三重県の食文化は、5つの食文化圏に分けることが出来ます。北勢の食文化、中南勢の食文化、伊勢志摩の食文化、伊賀上野の食文化、東紀州の食文化です。そこに、中世以降盛んになった伊勢神宮への参宮にまつわる食文化が彩(いろどり)を添えてくれます。

しかし、最近では食生活が豊かになり、また食生活が洋風化して食材の消費動向も変化してきて、地域性も少なくなりつつあります。これらのことは、健康や栄養の面からも、農業の先行きの面からも、そのほか教育的、食品衛生的、食糧経済的、精神心理学的にも多くの問題をもたらしてきています。

このような社会情勢の中で、食文化復興のきざしが高まってきました。

三重県においても、平成10年度に三重県生活部文化課の発案で、三重県の食文化に興味・関心のある者たちが集まり、そのあとみえ食文化研究会が発足しました。みえ食文化研究会では、今日までの5年間、三重県の食文化について、学習・調査・研究・教育活動・広報・社会参加などに努めてまいりました。

今回の展示では、三重県の地理的・地形的・経済的・歴史的背景から生み出され、発展してきた三重の食文化を、食材の視点から取りあげてみました。まず何と言っても豊かな伊勢平野の幸として主食である米、また畑作物である大根、大豆を取り上げました。海の幸としては貝類を、野の幸・川の幸ではきのこ類・伊勢いも・鮎です。なお、伊勢いもについては、県立図書館における平成14年度のミニ企画展を再構成されたものです。

三重県の食文化は調べれば調べるほど奥深く、今回もほんの一端ですが、ひととき、図書を通じて、三重の食文化をお楽しみ下さい。

平成15年9月2日 みえ食文化研究会 会長 成田美代

三重県立図書館

三重の食文化-食材から考える- 総論

三重県は日本の中央部に位置し、鷹の羽を広げた様な形をしています。

気候は温暖で、北から中南勢にかけて広がる伊勢平野からは、1年中緑が絶えないと言われるように豊かな畑作物がもたらされています。

東側は伊勢湾から伊勢志摩のリアス式海岸を経て太平洋に続く広大な熊野灘に面して、1,000kmもの海岸線を擁しているため、限りない豊かな海の幸に恵まれています

北・西・南側は標高1,500mを越える鈴鹿山脈や大台山系が連なり、その間を流れ下る多くの河川からの山の幸・川の幸が彩り(いろどり)を添えて、豊かな食文化を育んで来ました。

今回の展示では、三重県の地理的・地形的・経済的・歴史的背景から生み出され、発展してきた三重の食文化を、食材の視点から取りあげてみました。まず何と言っても豊かな伊勢平野の幸として主食である米、また畑作物である大根、大豆を取り上げました。海の幸としては貝類を、野の幸・川の幸ではきのこ類・伊勢いも・鮎です。なお、伊勢いもについては、県立図書館における平成14年度のミニ企画展を再構成されたものです。

三重県では、いろいろな指標の全国順位をみると、多くの指標が25位前後とほぼ中ほどに位置しており、食材の生産量についても、平成14年度のデータによると、農産物については米20位、小麦10位、大根32位、トマト20位、いちご17位など中ほどの順位を示しています。

しかし、なかには荒茶3位、かぶせ茶1位、1戸当たりの肉用牛5位、など、上位に入る物も多く、特に海面漁業による魚類合計で7位、そのうちビンナガ1位、カツオ2位、まいわし・クロマグロ・貝類いずれも4位、海藻類合計6位、また海面養殖業においても魚類合計で9位であるものの、マダイでは2位、かき類5位など上位に位置し、その他の項目でも軒並み上位10位に入り、さすが海に面した地域であることをありがたいことだと思います。

このように、三重県の海の幸は、種類も多く、生産量も多いのはうれしいことですが、しかし、その海の資源も、 近年減少傾向であり、特に巻き貝は絶滅の危機に瀕しています。

それは最近の海の汚染の影響と、人工的な自然破壊(長良川や熊野川では堰やダムの建設、さらに最近の中部国際空港建設による伊勢湾への人工的アタックなど)、間接的自然破壊(観光開発により海辺の自然改変など)を受けています。

食文化を守り育てるには、食材を大切にしないといけないし、食材をもたらす畑や海・川を大切にすることが大切です。

また一口に食材と言っても、時代とともにその種類が変化しています。

その第1要因は、人びとの嗜好の変化によって、好まれない品種の淘汰と好まれる品種の開発によるものです。また、生産者側の論理による棚持ちのよい品種や単位面積あたりの収量の多い品種への変更です。

このことは漁業においても、養殖技術の発展によって、良いまたは好まれる形質を持つもの同士を交配して、新しい種類の開発が行われています。例えば、真鯛とマチ鯛を交配させて、消費者ニーズに合致した新しい鯛を生み出しています。

第2要因は、環境の変化による食材の変化が見られます。

地球温暖化の影響で栽培種の変化、水質汚濁による伊勢湾・志摩半島・熊野灘の漁獲魚種の変化、海流の変化に依るものです。

第3要因は、政治・経済・社会的要因すなわち貿易自由化、規制緩和の結果、多くの外来の食材が輸入されています。例えば西洋野菜や熱帯産果実など非常に多くなっていますし、テラピアはイズミ鯛と呼ばれ、真鯛に近い感覚で出回っています。

また少し古いことですが、漁業海域200海里の設定や捕鯨禁止なども、私たちの食卓や地域の食文化を変えてきました。

また、食材はそれぞれの産業に従事する人がいて、初めて食材として消費者の手に入るのですが、近年の社会情勢は、産業従事者の変化をもたらしています。

三重県の実情としてうれしいことは、基幹的農業従事者が平成7年までは減少傾向であったものが、それ以降増加傾向にあるということです。

しかし漁業就業者数は減少傾向をたどり、海の産物の漁獲量の減少と連動していると思われます。

三重県の漁業従事者の特徴は、女性がその32%を占めていることで、これは全国1位であります。女性の活躍は、かなり海女によるものですが、その海女も近年減少傾向であり、昭和24年には約6,000人ぐらい居ましたが、平成14年では1,378人と、その減少ぶりが著しいです。

三重県という単位の中にも地域差があります。

地理的気候的経済的特徴から、これらの食材の食べられ方にも特徴があり、それらの特徴に応じて、三重県の食文化を、5地域に分けることが出来ます。それは、北勢の食文化、中南勢の食文化、伊勢志摩の食文化、伊賀上野の食文化、東紀州の食文化です。そこに、中世以降盛んになった伊勢神宮への参宮にまつわる食文化が彩(いろどり)を添えてくれます。

また、三重県は政治経済的には愛知県・岐阜県・滋賀県・奈良県・京都府・和歌山県に接しており、また中世の東海道をはじめ多くの街道(伊勢街道・伊勢別街道・初瀬街道・和歌山街道・和歌山別街道・熊野街道など)のおかげで、都の文化や東国武士の文化が入り乱れ、食の文化においてもちょうど分水嶺の役割をして、発展してきました。

例えば、お雑煮のモチの形態を調べたところ、三重県と富山県を結ぶところに東西の分水嶺があることが分かりました。(三重県の中のモチと汁については、「米」の展示コーナーをご覧ください。)

またうどんの汁の色と味、さばを使ったすしの分布、いなりずしの呼び方の分布などにも三重県富山県の分水嶺が生きています。なすび(関西)━なす(関東)の呼び方の分水嶺もここにあります。

近年では交通の発達や通婚圏の拡大などにより、これらの分水嶺の境界が曖昧に混在してくる傾向にあります。

しかし、先祖が知恵を働かせて育てた食材と食べ方は、今日の我々を育ててくれるいのちの元であり、その地その地の叡智の成果であることに感謝し、子孫への継承の役割を担っていることを認識すべきでしょう。

平成15年9月13日 みえ食文化研究会

古代以来日本人の食生活の中心になっている稲は、もともと日本にあった植物ではなく、原産地はインド東部ベンガルの奥地又は中国雲南省との説が有力です。

この稲が揚子江下流から東シナ海を渡り、南朝鮮と北九州に伝来した時期は、縄文晩期(紀元前三、四世紀)で、米を常食とする生活が始まったのは弥生式文化(紀元前二、三世紀)の時代といわれています。

水田稲作と米常食の習慣は、古代の生活に大きな変革をもたらし、わが国の社会組織と民族的諸習慣の根底をなすことになり、この時代に我々の祖先は自然物を雑食した生活から飛躍して米を主食とし、他の動植物食品を副食とみる伝統的食事観念と習慣を形成しました。

「飯」は「いい」または「めし」で、「めし」は貴人や目上の人の召し上がり物を意味する言葉でした。

古代における稲の脱穀やトウ精は竪臼(タテウス)と竪杵(タテキネ)によっていました。米の調理は主として[コシキ]で蒸し、蒸すほかに、煮る、焼く、炒るなどの方法も行われました。稲を脱穀したあと、ほとんど[トウ]精せずに蒸した飯は固いから強飯(コワイイ)、煮たものは粥(カユ)とよばれ、汁けの少ないものは固粥(カタカユ)、汁けの多いものは汁粥(シルカユ)といいました。

焚きぼし法が一般的になる平安末期から、固粥は強飯に対応して姫粥(ヒメイイ)と呼ばれ、単に飯といえば、奈良平安期は強飯(コワイイ)でしたが、柔らかい姫粥(ヒメイイ)が一般的に好まれ普及していくにつれ、平安末期からは姫粥をさすように変わってきました。

平安期には宮中、民間いずれも、強飯を正式なものとしたので、節会(セチエ)の饗膳や供御(クゴ)には強米が用いられ、改まった場合は腕に高く盛りあげて丁重さをあらわしました。平安末期には、貴族も日常の食事は姫飯をとるようになっていきました。

中世の芳飯(ホウハン)(法飯)は器に盛った飯の上に野菜や乾魚を煮てのせ、汁をかけたもので中世の公家や武家の食膳に供されていましたが、もとは寺院から始まった食法であり、芳飯は散らし鮨や親子丼などの原形とされています。

米の[トウ]精度は時代とともに進み、それにつれて飯の食べ方も変わってきました。食事作法がやかましくなった室町期には、湯漬と汁かけ飯が尊重され、湯漬けは饗膳に必ず出る飯でしたが、後には湯漬けや汁かけ飯はむしろ卑しい食べ方となりました。

鎌倉時代には、金属や陶器の釜が広まりつばのついた(羽釜)が登場して、煮るから焚く(煮る、蒸す、焼くを合わせた調理法)に発展しました。

そして、江戸時代中期には、厚手のふたをつけた釜が広まり煮る・蒸す・焼く(余分な水分を飛ばす)の焚き干し法が定着しました。日本人が白いご飯を食べるようになったのもこの頃からです。

それまでは、籾殻をとっただけの玄米や、半つき米を主に食べていました。

酢(スシ)(鮨)は元来東南アジア山地の民の間で魚の保存食として始まった料理です。中国も南宋(1127年から1279年)の頃には酢つくりが盛んに行なわれていたが、元の時代(1264年から1368年)から衰え、いまは消滅してしまいました。一方、海を隔てた我国では酢つくりは時代とともに独自の発展をとげてきました。

酢はその製法からみて、馴酢と早酢とに大別されます。 馴酢は魚と米を一緒に漬け、自然発酵によって米の澱粉から葡萄糖を経てできる乳酸によって、魚に特異の風味をつけるとともに、酸によって魚を長期保存することを目的としたものであり、食酢を添加して外部から酸味を与えたものが早酢です。

三重の米

三重は歴史の古い国です。三重を構成する伊勢、伊賀、紀伊、志摩の国はそれぞれ独自の自然の暮らしと食文化をもっています。

三重の中央にお伊勢さんの名で親しまれる神宮が鎮座しております。神宮には、五穀をはじめ衣食住の恵みを与えてくれる豊受大御神(トヨウケノオオミカミ)が祀られており、この神に日に二度、おもの(神饌)として基本的には御飯、御塩、御水がそのた旬のものが供えられ、さらにお酒が加わった神饌には、古代以来の日本人の食の基本が備わってます。

「常世の波寄する国」伊勢は、古代人の理想郷でした。「伊勢の国に住めばもの案じするな」といわれるくらい、くらしやすい土地柄です。

この地に幕末から明治にかけて稲の新品種が三種、民間で育成され、 伊勢の三穂″と呼ばれました。

岡山友清の手になる「伊勢錦」、佐々木惣吉による「関取」(雲龍)、松岡直右衛門が育てた「竹成」がそれです。

醸造米として有名な「伊勢錦」は、参宮街道の頒布所で無料で配布され、各地にひろがっていきました。お伊勢参りの街道は、品種や技術や情報の交流の場でもあり、伊勢商人の活躍もこうした人と情報の集まる土地柄のうえに生まれたのです。

江戸時代から参宮街道の料理はうなぎとすしが多かったようです。

大勢のお客を簡単にもてなすにはうなぎとすしがてっとり早い。庶民的で高からず安からず、ちょっとだけ高級で、気取らずに食べられる「ごちそう」だから、全国からのお客に好まれました。

さらに伊勢湾沿いの鈴鹿から松阪、磯部の穴川には養鰻場が多くあったのも重要な理由です。

伊賀には古く奈良東大寺の荘園がありました。奈良文化の影響を受ける伊賀では、茶粥が親しまれています。

同じ山国でも、紀伊には伊賀と違った食文化があります。麦飯を高菜漬の葉で巻いた「高菜ずし」が山仕事の食事として食べられ、また熊野灘のさんまをつかった「さんまずし」はこの地方の晴れの食です。日常食としては多彩な茶がゆのあれこれがあります。

沖合に黒潮を擁する志摩は、古来「御食(ミケ)つ国」として朝廷に海産物を献上してきた国です。海の男たちは、生きのよいかつおを船上で「てこねずし」にして味わいます。晴れの日には、働き者で明るい志摩の女たちが、あじやいわしですしをつくり、さはちに盛りつけます。

現在の三重県の米について

平成13年度の三重県における水稲の作付け面積は33,900ヘクタールで収穫量は168,800トンです。

三重県の米は、本州で一番早く獲れます。(南勢地区では超早場米が7月下旬から8月上旬にかけて検査を受け、消費者に届けられます)9月には約80%の検査が済む早場米ですが、1等比率は、近年低下の傾向にありますが、県産米の品質向上に向けた取組み(star 4 作戦)が強化、展開されています。

三重県産米の品種別シェアは「コシヒカリ」が7割以上と大半を占めています。

平成11年にデビューした「みえのえみ」は三重県で育成された良質米であることから、「早場米」「伊賀米」とともに「三重の顔」としてブランド化が推進されており、シェアは4%となっています。

幕末から明治にかけて全国に名声を博した伊勢の三穂

「伊勢に住めばもの案じするな」といわれるほど、伊勢地方では平野からとれる米、 野菜、伊勢湾からあがる海産物が、四季おりおりにあり、冬の一時期を除いて、新鮮な 食べものが手にはいります。

この暮らしやすい土地柄の地で、幕末から明治にかけて、稲の新品種が三穂、民間で 育成され、"伊勢の三穂"と呼ばれました。

佐々木惣吉による「関取」(雲龍)、松岡直右衛門が育てた「竹成」、岡本友清の手にな る「伊勢錦」がそれです。

醸造米として有名な「伊勢錦」は、参宮街道の頒布所で無料で配布され、各地に広がって いきました。お伊勢参りの街道は、品種や技術や情報の交流の場でもあったのです。

その後、これまで各地の民間で取組んできた稲の品種改良などが、国や県の主導で行なわ れるようになり、 "伊勢の三穂"も、食糧難や現代農法に合わない事などがあり、栽培さ れなくなり姿を消しました。

ただ、伊勢錦は、平成3年から地域特産の酒造好適米として復活をはたし、三重県内で小 量ながら作付けされております。

それは、 三重県農業技術センターに伊勢錦の種子が保存されていることを知った、真の 地酒つくりにこだわる酒造業の方が地元産酒米の復活をかけるために、一握りの種子を譲り 受け、40年ぶりの復活栽培に踏み切ったからです。

地域性に富んだ三重の餅

餅には、様々な種類があります。お正月の雑煮ひとつとっても、形や味付けが地域によっ て違います。一般的に、西は丸餅を使った味噌仕立て、東は角餅を使ったすまし汁。

その境界線は、伊勢湾と若狭湾を結ぶラインという説があります。それによると三重県は ちょうど丸餅と角餅が入り混じっている地域ということになります。

江戸時代「せめて一生に一度は参宮したい」という日本人のあこがれ、「おかげまいり」 が60年の周期でおこり、全国からの大勢の旅人が伊勢を訪れ、この地は大いに賑わいました。 参宮街道の宿場の分岐川や渡し場、峠路、あるいはその登り口付近には餅屋が集中しました。 北勢地方の餅は、長くて平たい形をしており、しかも両面が焼いてあります。

中勢地方は、餅の上に糯米の粒を載せて蒸したものです。

南勢地方はぼた餅きな粉餅の類が多くなります。さらに、渡し場や峠の近くでは、飴を餅 で包んだあんこ餅と呼ばれるものが主流になってきます。

さらに松阪・伊勢志摩では「さわ餅」が多くみられ、伊賀地方では「くさ餅」や旧暦の端 午の「ちまき」が比較的多くあるのも特色と思われます。

餅は季節や祝事とも関係があり、餅と私達の人生は、昔も今も、ずいぶん深いつながりが ありそうです。例えば、1月は正月の事始めの鏡餅、雑煮、成人の日の紅白大福餅。 3月 は雛祭りの菱餅、桜もち。 5月は端午の節句の粽、柏餅。 7月は土用餅。 その他、出 産祝、命名祝、新築祝、開店祝、七・五・三、結婚祝、厄祝、還暦、古希、喜寿、米寿な どのお祝に使われます。

参宮客が好んだ「うなぎ」と「すし」

「せめて一生に一度は参宮したい」という日本人のあこがれが、ほぼ60年の周期とし て「おかげ年」といわれるブームとなり、全国からの「おかげまいり」で伊勢は大いに賑 わいました。
最も盛んだったのは文政13年(1830)。この年は、春だけで457万余人、1日の最高は 14万8000人といわれています。

その人々のために仮小屋を建て、にぎり飯、赤飯、かゆ、もち、茶などを振る舞ったことが『大神宮続神風記』などにでてきます。

全国からの大勢の参宮客を迎え、簡単にもてなすには、うなぎかすしが手っとり早い。で すから、江戸時代からこの地方は、すし屋とうなぎ屋が多かったわけです。 うなぎもすしも、庶民的で高からず、ちょっとだけ高級で、気取らずに食べられる「ごちそう」だったから、旅の客が多い町にふさわしい料理だったのでしょう。

伊勢地方のうなぎ料理は「どんぶり」と「まぶし」。どんぶりはうなぎどんぶり飯の略、 まぶしは、たれでまぶしたごはんの間にかば焼きを入れて蒸したから間蒸といいます。

関東では蒸して焼く「うな重」が主ですが、関西は蒸さずに焼いた「うな丼」。

この地方は関西食文化圏に属しています。

なお、志摩郡磯部町穴川は、明治時代から静岡県浜名湖に次ぐ養鰻業の盛んな土地です。

平成15年9月13日 みえ食文化研究会

伊勢いも

伊勢いもは三重県の誇る特異な食材です。伊勢いもの多様な料理法や植物としての特性をふまえ、地元の人々の苦労と先人の努力の跡をとおして三重県再発見のひとつの契機にしたいと思います。

秋から冬への食卓を彩る味覚の1つに"とろろ汁"があります。あの粘り気、舌ざわり、素朴な風味、つい食べ過ぎても不思議とお腹にこたえない食物で、昔から身体にいい食べ物と言われてきましたが、そのとおり健康食品であることが近年実証されてきました。この"とろろ汁"はヤマノイモからつくりますが、ヤマノイモの栽培品種のひとつが三重県多気町特産の"伊勢いも"です。

1 料理と栄養

伊勢いもは凹凸が多いので皮がむきにくく、廃棄する部分が多いと言われていますが、 「ぬるま湯(40から45度)に約2時間ほどひたしてから、ナイロンたわしで強く洗うと簡単に皮がむけます。凹部は包丁の先で削れば無駄なく皮が取れます」
と多気町農林商工課のパンフレット「多気の伊勢いも」に載っています。

伊勢いもは、料理中も料理完成後も乳白色のままで、褐色に変色することがないという特長を持っています。この芋を生のまますりおろすと、餅のように強い粘性を有する物質ができます。この粘性は、いわゆる"とろろ"と呼ばれ、これに冷めた"だし汁"を加えすり鉢でよくすり、さらにのばすと味もまろやかな"とろろ汁"となります。含まれているアミラーゼ(消化酵素)はさらに効果のある働きをします。この独特の粘質物質は、「ムチンを主成分とするたんぱく質とマンナンの結合物」です。(小学館「日本大百科全書17」より)

伊勢いもの研究家山口安太郎氏は、その著『伊勢芋料理の作り方』の中で伊勢芋料理として32種、さらに山芋料理として27種を加えて合計59種類の料理を紹介しています。

多気町農林商工課の『多気の伊勢いも』によると、地元高校生による簡単料理レシピとして「クリーミーとろろご飯」「伊勢いものやわらか磯辺揚げ」「伊勢いもの磯汁」、生産農家直伝料理として「落とし芋(澄まし汁)」「麦とろ(とろろ)」「揚げとろ」が紹介されています。

また、多気郡農業協同組合の『多気町特産 伊勢いも』には、「とろろ汁」「月見とろろ」「芋かけうどん」「切りとろ」「揚とろ」「あわ雪さしみ」が紹介されています。

平成14年に生産農家や関係者・町などが協同で、伊勢いもを練り込んだ「とろろ麺」を開発しました。この「とろろ麺」は、五桂池ふるさと村の「おばあちゃんの店」でお買い求めいただけます。

伊勢いもは、種芋(親芋)の下に新しく子芋が形成されて肥大化してくるので、収穫時には肥大化した子芋の上に縮小した種芋(親芋)を頂く形となっています。地元ではこの"子が親を頂く"形状にあやかって縁起を祝い、結婚などのめでたい席に伊勢いもの「白煮」を添えます。

食品成分表によると、水分66.7%・炭水化物27.1%・蛋白質4.5%・灰分1.5%・脂質0.2%となっています。ミネラル類は、カリウム590mg・リン70mgをはじめナトリウム・カルシウム・マグネシウム・鉄・亜鉛など種類が多くあります。ビタミン類も少量ですが種類は多く、カロテン・E・B1・B2・ナイアシン・B6・葉酸・パントテン酸・Cを含有しています。他に、脂肪酸や食物繊維が少量含まれています。エネルギーは123KCalです。

野生種の自然薯(じねんじょ)に比べて水分がおよそ3%少ないのは、粘りが強いと言われるゆえんです。従来から伊勢いもは、栄養価の高い健康食品で、滋養強壮・薬用等の効果が大きいと言われていますが、この成分をみるとよく理解できます。

2 植物としての特性

"とろろ"をつくる芋は、昔は"薯蕷"と書き"やまのいも"と読んでいました。"やまのいも"はナガイモすべてを含んでいたようです。伊勢いもも"やまのいも"の一種と理解していいわけですが、山野に自生する"やまのいも"と同じなのかという疑問が浮かんできます。また、植物学上のナガイモと農作物としての長芋との区別もあります。 そこで、簡単にまとめると次のようになります。

ヤマノイモ科 ヤマノイモ属ナガイモ・・・栽培種(地方により呼び名が異なるものもある)長形種・・・長芋・とっくり芋・一年芋

扁形種・・・いちょう芋・仏掌芋

塊形種・・・伊勢いも・大和芋・豊後芋・丹波やまのいもヤマノイモ・・・自生種自然薯・やまいも 伊勢いもは、分類学上ヤマノイモ科ヤマノイモ属のナガイモで、その栽培変種のひとつです。

全国的にみると、栽培面積は、長形種のいわゆる長芋などがおよそ65%、扁形種のいちょう芋などがおよそ25%、塊形種の伊勢いもなどがおよそ10%となっています。

やまいもや自然薯はヤマノイモ科ヤマノイモ属のヤマノイモです。

どちらも同じヤマノイモ科ヤマノイモ属ですが、ナガイモとヤマノイモとは、遺伝子も異なる別物です。

3 産地の歩み

伊勢いもは、三重県多気町津田地区が原産地です。その栽培の歴史は定かではありませんが、中世に北畠氏の家臣が大和より伝えたとか、近世江戸時代に紀州藩が持ち込んだ大和芋を多気町津田地区で改良したものとかいう伝承があります。形質上大和芋に近いことは確かで、「ヤマトイモから由来したことはまちがいない」と言われています (「御巡行の記」208ページより)
文献上の初見は、江戸時代中頃、享保4(1719)年の年忌献立表の中に、山の芋一貫目を5文(ごもん)で買ったという記録があります。また、文化8(1811)年の「萬覚帳(よろずおぼえちょう)」にも、山の芋を栽培し販売した、と記されています(「伊勢薯歴史の資料」より)

明治になってから、一般農家に栽培が広がり、内国勧業博覧会や品評会・副業展等に度々出品しています。地元では「薯蕷」と書きヤマノイモと呼んでいました。博覧会等へ出品する時も「薯蕷」としていました。

生産の増加に伴なって、松阪商人の買付が始まると津田地区で買い付ける時は「津田薯」と呼び、それを名古屋市場へ出荷する時は「松阪薯」としていました。

そこで三重県と相談して、明治33年(1900年)「伊勢薯」と改称・統一しましたが、この名称が定着するまてにはしばらくの年月を要しました。

問合せ先

多気町農林商工課

多気郡多気町相可1600

電話 0598-38-1117

多気郡農業協同組合多気センター

多気郡多気町四神田340-2

電話 0598-37-2111

伊勢イモ歴史資料館

多気郡多気町佐伯中562

電話 0598-38-2798

(平成15年9月13日 三重県立図書館)

大根

大根はもっとも古くから日本人に親しまれてきた野菜のひとつです。地中海沿岸が原産と言われています。日本の大地に大きく根をおろし、それぞれの地域の気候・風土によって培われ、料理法も数多く生み出されてきました。

三重県では肥沃な伊勢平野を主に全域で栽培され、季節風をうまく利用し、大根の加工が行われてきました。

大根の記録は日本最古の文書「古事記」や「日本書紀」に記されています。大根は根が大きいことから「おおね」とか根が白く涼しげだから「すずしろ」と呼ばれていたのが、 室町時代になって「大根」と言われ、大衆化したものと思われます。

栽培・品種

大根の栽培は品種により異なりますが、8月から9月に種をまき、11月から12月に収穫する秋大根が多く栽培されています。9月から11月に種子をまき、翌年3月から4月に収穫する春大根、3月から4月に種子をまき、5月から7月に収穫する時無大根があります。

品種としては練馬、宮重、細長い守口、大きく丸い聖護院、桜島、亀戸、美濃早生、方領、阿波晩生、二年子、時無などが知られています。

伊勢平野で栽培され「伊勢たくあん」に用いられる「御園大根」は、宮重系を母体とし、練馬、美濃早生を交雑させたものに選抜が重ねられ、「度会1号」を経てできたものです。

御園大根の特性は色白で直径5cm、長さ50cm肩は丸く、先は尖っており、円筒形で1本1.5kgぐらいでたくあん漬けに適しています。

その他に葉を食べる葉大根、二十日大根(ラディッシュ)は明治時代に伝来されています。

成分

品種により形、大きさは異なりますが、水分92%から94%、糖質約3%が含まれ、 根と葉にはブドウ糖、蔗糖、果糖が含まれています。ビタミンCが15mg/100g含まれ、葉には70mg/100g、ビタミンAは1400IUと非常に多く、栄養価の高い葉菜です。また、冬期のビタミン不足を補う野菜のひとつでもあります。

食べ方

生ではおろし、さしみのつま、酢の物などに用いられ、おでん、風呂吹き大根、汁の実、各種漬物(塩漬け、糠漬け、酢漬け、粕漬け、味噌漬けなど)、乾燥保存物(切干し大根、丸干し、割干しなど)として多彩に利用されてきました。

大根は古くからハレの日の食物や神への供え物とされています。京都の了徳寺や大報恩寺では毎年12月になると大根炊きの行事が行われ、境内の大鍋で大根を煮込んで参詣者にふるまっています。これを食べると中風などの病気にかからず一年中過ごすことができるとも言われています。また、西日本の地域では"亥の子"という収穫祭が行われ、餅と大根が供物とされます。この日は大根が太くなりすぎるから畑に入ってはいけないという風習もあります。

三重県内では、鈴鹿市南部地域、四日市内部地域では「山の神」や「神明講」などの神事に大根炊きが作られ、また、「報恩講」やお寺の開山命日に大根汁が参詣者にふるまわれてきました。残念ながら、現在は少なくなってきています。

四日市市水沢町では12月27日のお七夜でおつとめの後、お七夜大根を食べます。この時大根は2cmの輪切りにして約1日間干すことによりうまみがでることや、油揚げを加えることによってだしも抽出し、ゆっくりと2日間砂糖と味噌で調味し煮込みさらに八頭を加え、寒い夜これを食べることにより、体も温まり郷愁にひたります。

大根を利用した三重の郷土食をあげてみると、鈴鹿市徳居町で「神明講」の時に調理される大根炊き、津市の農村地域で調理される大八車、鈴鹿市や三重郡菰野町では大きな木のおろし器で大根をつき、ちくわ、ねぎ、ゆずを細かく切り、煮干を細かく裂いたものを酢につけ酢味噌で和えたものを大根のガラガラおろし、ガタガタおろしと呼ばれています。

松阪市の周辺ではあいまぜ、煮なますなど数多く存在してます。

紀州地域では正月や人寄りには人参と大根のなますを調理しますが、仏事には人参を加えず魚を酢につけたものと大根をきざんだ「白なます」を調理します。

昔の人の知恵がにじみ出ている大名炊きは、あほ炊きともいわれます。これはたくあん漬けの色や味が悪くなったものを再度利用した料理で、一度漬けた大根を再び煮るあほ(馬鹿)もいると言うことから「あほ炊き」と呼ばれるようになったのです。また、地域によっては「大名炊き」とも言われ、一度漬物にしたものを塩抜きし、調味することからの呼称です。

大根の加工では昭和32年京阪神鉄道の開通とともに発展した「伊勢たくあん」があります。

農家の副業として加工されてきたたくあんは、昭和20年代になると同業者が増加し、昭和30年代に三重県は全国一の漬物製造県となりました。しかし、昭和40年代には食生活の洋風化による嗜好の変化や、スーパーマーケットの進出、大根産地の老朽化による品質低下によって、急激に生産量が減少し、現在では土産物店や通販が主となりました。

最後に演技のへたな役者さんのことを「大根役者」といいますが、これは大根を食べて当ったことがない(食中毒にはならない)という意味があるそうです。