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常設展 平成15年11月から平成16年11月

展示期間 平成15年11月11日火曜日 から 平成16年11月28日日曜日

三重の国学・和歌

松阪の本居宣長(もとおりのりなが)は、古典研究と国学思想の大成者として、近世を代表する学者の一人である。その私塾鈴屋(すずのや)には全国から多くの俊秀が集い、すぐれた国学者を輩出した。宣長の没後も、その学問は長男春庭(はるにわ)・養嗣子大平(おおひら)へと受け継がれていく中で、急速に庶民層に浸透し、全県域に拡大していった。しかし、三重の国学の発展には、内宮神官荒木田久老(あらきだひさおゆ)及びその一門の活躍が一方にあり、中南勢を中心に多くの門人を擁したことも見逃せない。

近世後期には久老門で春庭・大平にも学んだ山田の足代弘訓(あじろひろのり)が寛居(ゆたい)塾を主宰、その学頭となった佐々木弘綱(ひろつな)は石薬師に竹柏園(なぎぞの/梛園)という私塾を開き、それぞれに精力的に活動を展開、その影響を県内全域に及ぼしている。また、和歌山の出身で、同じく春庭・大平の門人となった桑名の富樫(鬼島)広蔭(ひろかげ)は言幸舎(ことさちのや)という私塾を開き、東海道を中心に諸国に多くの門人を擁した。

三重の国学者としては、他に、山崎闇斎(あんさい)の垂加神道(すいかしんとう)の影響を受け、上記国学者たちとは異なる立場で古典・語学研究の成果をあげた谷川士清(ことすが)や、独自の学問を築いた黒沢翁満(くろさわおきなまろ)、橘守部(たちばなのもりべ)など枚挙に暇がない。

なお三重の和歌は近世中期以降は国学者を中心として隆盛をみるが、その濫觴(らんしょう)は伊勢神宮内宮神官の伝統的文芸としての神宮法楽和歌など、神宮を中心とする盛んな活動と影響も看過できない。

(『三重県史 資料編』近世5による)

展示品解説

  1. 本居宣長 和歌懐紙見渡せば花よりほかに色もなし日数や春のかぎりなるらむ 宣長
  2. 足代弘訓 和歌短冊ゆふ暮にふるうすゆきのここちしておぼろ月夜にちる桜かな 弘訓
  3. 高畠式部 和歌短冊残雪 花梅半
    梅がえのはなの下ひもとくままにほころび多きゆきのしら絹 式部女 
  4. 佐々木弘綱書簡 (書簡末に長歌および反歌を記し石薬師より上京の決意を詠う)
    羇旅(きりょ)歌
    反歌
    しきしまのやまと魂かためむといはねさくみてまどひつるかも
  5. 本居宣長自筆先触(佐那嘉介名義) 晩年、紀州藩に仕えた宣長が京都から松阪に帰る際に各宿場に出した先触れ。佐那嘉介は実在せず、宣長が家来名で書いたもの。
  6. 足代弘訓歌集佐々木弘綱編 明治24年刊 博文館

三重の連歌・俳諧

和歌と併称される連歌(れんが)は、伊勢神宮の神官たちにとって、基本的な教養として中世に始まり、近世初頭には盛んに行われた。神官連歌の隆盛のみならず、武家の文芸としての連歌も盛んであり、伊賀上野の藤堂新九郎家の慶長年間のものなどが今に残っている。

伊勢神宮内宮神官・荒木田守武(あらきだもりたけ)は俳諧に取り組み、天文9年(1540年)に『守武千句』が成立、以後、伊勢の神官社会では俳諧が盛んに行われるようになった。近世初期、宇治・山田・松阪では、次々と大きな俳諧撰集が刊行されている。またその後、足代弘氏(あじろひろうじ)の神風館を中心に談林俳諧が流行したが没後には衰退した。

伊賀に生まれた松尾芭蕉は江戸に出て家を成し、貞享・元禄年間に計3度伊勢を訪れるが、伊勢に芭蕉の俳諧(蕉風)を根付かせることはできなかった。しかし、各務支考(かがみしこう)が芭蕉の意を受けて伊勢に庵を結び、岩田涼莵(りょうと)・中川乙由(おつゆう)らと共に、蕉風を普及させ、伊勢風と呼ばれる俳諧が開花する。なお、涼莵は神風館を再興し、以後代々、一門の指導者によって神風館は引き継がれている。

上記の他、全国を行脚して各地の俳壇に多大の影響を与えた射和(いざわ)の大淀三千風(おおよどみちかぜ)、桑名では雲裡坊杉夫(うんりぼうさんぷ)が名古屋から移住、この他に美濃派俳諧の伝統が引き継がれる。白子では魯石(ろせき)がその名を広く知られ、津では菊池二日坊(ふつかぼう)とその一門が活躍した。

また、松阪の森川滄波(そうは)、蕪村(ぶそん)一派と交流の深かった伊勢の三浦樗良(ちょら)など、三重には豊饒(ほうじょう)な俳諧文芸の展開が見られた。

(『三重県史 資料編』近世5による)

展示品解説

  1. 松尾芭蕉 「蛤の」画付色紙(複製) 伊勢へ旅立つ芭蕉が、大垣で詠んだ句。『おくのほそ道』では、巻尾に置かれている。
    蛤のふたみに別行秋ぞはせを
  2. 松尾芭蕉 貝おほひ(複製) 寛文12年(1672年)、芭蕉29歳の時の処女作。伊賀上野の俳人の発句に自句を交えて三十番の句合とし、判詞を加えたもの。
  3. 松尾芭蕉 『猿蓑集』井筒屋庄兵衛版 俳諧七部集の内 「初しぐれ猿も小蓑を欲しげなり」の句碑は大山田村長野峠にある。
  4. 荒木田守武『俳諧之連歌独吟千句』慶安5年(1652年)刊 野田弥兵衛開版
  5. 梅のしずく中川麦浪(中川乙由の子)輯伊勢山田藤原長兵衛刊 宝暦5年(1755年)序 麦林(中川乙由)追善の句集。

佐佐木信綱

(1872年から1963年)鈴鹿郡石薬師村出身。歌人・国文学者。

1872年(明治5年)6月3日から1963年(昭和38年)12月2日

鈴鹿郡石薬師村(現鈴鹿市石薬師町)出身 歌人 国文学者 1888年(明治21年)帝国大学(現東京大学)古典科卒業後、父弘綱の志を継ぎ、作歌及び後進育成に当るとともに、歌学研究と著作活動を通じて、歌壇・学界に多大な貢献をした。

歌人としては、1898年(明治31年)、門人組織「竹柏会」の機関誌『心の華』(のち『心の花』)を創刊、短歌革新運動に加わり、「ひろく、ふかく、おのがじしに」をモットーとした。1903年(明治36年)、歌集『思草(おもいぐさ)』により、新派歌人・信綱の名が広まった。

願はくはわれ春風に身をなして憂ある人の門をとはゞや

は歌人としての抱負を詠んだものである。主情的で温雅平明な調べは、三重の風土に培われた信綱の人柄と歌風を象徴していよう。歌集は『新月』『常盤木(ときわぎ)』『豊旗雲(とよはたぐも)』『鶯』など、全部で12冊ある。ほかに、文部省唱歌「夏は来ぬ」の作詞者としても知られる。

国文学者としては、古典の翻刻・活字本による刊行など、古典普及につとめた功績が大きい。1925年(大正14年)には、『校本万葉集』全25巻を完成し、以後の万葉研究に恩恵を施した。『日本歌学史』『和歌史の研究』『近世和歌史』は、和歌・歌学・歌謡研究の成果である。

一方では、生涯にわたって郷土三重の文化振興のため援助を惜しまなかった。生家は鈴鹿市に寄贈され、隣接の佐佐木信綱記念館とともに公開されている。

展示品解説

  1. うるはしきいもとせのいえ新た代にあらたにつくるそのよき家を色紙
  2. むかひをればはにわのおものしたしもよそがうつろなるめのしたしもよ色紙
  3. 『思草(おもいぐさ)』明治36年刊 処女歌集。歌数550首。和歌の伝統を活かしながら、浪漫的理想主義的な温雅平明の歌が多い。
  4. 『新月』大正元年刊 第2歌集。歌数300首。30歳代から40歳代にいたる年代の屈曲した心情を、自由奔放にうたった作が多い。
  5. 『行旅百首』昭和16年刊 限定版 明治35年より昭和16年にいたる間の旅の詠草100首をみずからえらんだもの。

斎藤緑雨

(1867年から1904年)河曲郡神戸新町出身。小説家・評論家。

1867年(慶応3年)12月30日から1904年(明治37年)4月13日 河曲郡神戸新町(現鈴鹿市神戸)出身 小説家 評論家

斎藤緑雨は、本名・賢(まさる)。幼名を俊治といい、慶応3年12月30日、河曲郡神戸新町75番屋敷(現鈴鹿市神戸2丁目)に、伊勢神戸本多侯の典医であった父・利光と、母・のぶの長男として生まれた。

明治9年、9歳で上京後、其角堂永機について俳句の手引きを受け、幼友上田万年(国語学者)と回覧雑誌を発行するなど、文学に傾倒する。

明治17年、17歳の時、仮名垣魯文の弟子となり、ついで『今日新聞』に入社。この頃から文学活動は本格化する。戯作風の続き物やパロディ批評で文壇に登場。やがて花柳小説「油地獄」「かくれんぼ」で作家的地位を確立した。「門三味線」では樋口一葉の「たけくらべ」と競った。

明治30年以降は、「おぼえ帳」以下のアフォリズム(警句)やエッセイが主になっていく。性狷介、新聞社を転々とし、貧窮のうちに肺患のため、明治37年4月13日「僕本月本日を以て目出度死去仕候間此段広告仕候也」という自分の新聞死亡広告を馬場孤蝶に口述させて、本所横網町に没した。37歳であった。

なお、名批評<三人冗語>の中で、緑雨は樋口一葉の「たけくらべ」を激賞、以降、一葉の死まで二人の交流は続いた。緑雨の弟子としては、小杉天外が唯一といわれている。

展示品解説

  1. 『あま蛙』初版 明治30年 博文館刊
  2. 『あられ酒』5版 明治38年 (初版 明治31年) 博文館刊
  3. 『わすれ貝』初版 明治33年 博文館刊
  4. 『みだれ箱』4版 明治38年 (初版 明治36年) 博文館刊
  5. 幸徳秋水宛書簡明治35年1月31日
  6. 『校訂 一葉全集』20版 明治40年 (初版 明治30年) 博文館刊 一葉没後、緑雨によって校訂刊行された最初の一葉全集。序文は緑雨。「にごり江」から「たけくらべ」にいたる24編を収める。 
  7. 『緑雨集』明治43年 春陽堂刊

三重の漢詩文

三重における漢詩文の隆盛は、近世中期にはじまる。享保年間に荻生徂徠(おぎゅうそらい)が提唱した古文辞学派は、当時の詩風、詩文観を一変させ、経学から詩文独立の風を生んだ。三重県域でも、古文辞学派の影響は大きく、神戸藩主の本多忠統(ただむね)(猗蘭/いらん)が、徂徠に学んで自作の漢文集『猗蘭台集』を編んだことは、その代表例である。また、京阪の漢詩壇との交流も深く、京の詩僧雪巌、大阪混沌社の細合半斎らとの交流などにより、この地の漢詩壇の水準は高かったと言えよう。

十八世紀後半、三重の漢詩壇に重要な位置を占めたのは、古義堂・伊藤東涯(とうがい)の門人で、津藩に仕えて門人八百人と言われた奥田三角(さんかく)であった。三角は古義学を広めると共に、津藩を中心とした三角詩社とも言うべき一大詩壇を形成している。また北勢には、龍草盧(りゅうそうろ)に学び、菰野藩学の基礎を確立した南川金渓(きんけい)があった。

近世後期は、全国的に漢詩文の豊饒(ほうじょう)な時代であった。山田の山口凹港(おうこう)は菅茶山(かんちゃざん)に学び、恒心社を主宰した。その社友には、茶山の塾頭となった北條霞亭(かてい)の他、東夢亭、河崎敬軒、鷹羽雲淙(うんそう)らがいた。

文化・文政以後は詩人の数も多いが、その中にも、『夜航詩話』の著者津坂東陽、『月瀬記勝』の著者斎藤拙堂などは全国的に著名である。

なお、おかげ参りの流行により、これに取材した狂詩集の出版も多く行われた。これも、三重の地域的特色といえる。

(『三重県史 資料編』近世5による)

展示品解説

  1. 津坂東陽草稿遊笠置山記
    享和元年、笠置山に遊んだ折の記。巻末に「此の記後来探勝の客の為、辞の絮煩を厭はず、委曲具かに録して繊悉遺すこと罔し。山の勝概茲に尽く」と記す。
  2. 『月瀬記勝』 斎藤拙堂著嘉永4年序 5年刊
  3. 勢海珠き 一集 家里松濤編
    嘉永6年自跋。在世の伊勢の漢詩人57家の詩を収録したもの

橋本鶏二

(1907年から1990年)阿山郡小田村出身。俳人。

1907年(明治40年)11月25日から1990年(平成2)10月2日 阿山郡小田村(現伊賀市小田町)出身 俳人

俳人・橋本鶏二は、明治40年11月25日、阿山郡小田村(現伊賀市小田町)に生まれた。16歳(大正13年)の頃から俳句に親しみ、『ホトトギス』に投句をはじめ、高浜虚子(きょし)に師事、また、22歳(昭和5年)の頃より長谷川素逝(そせい)とも親交を深めるようになった。

昭和18年、『ホトトギス』6月号で初めて巻頭を飾り、さらに昭和20年に同誌3月号の巻頭句「鳥のうちの鷹に生まれし汝かな」は高い評価を受け、その多くの鷹の秀句によって、「鷹の鶏二」として知られるようになる。

昭和30年から名古屋に移り住み、55年に上野市に帰住。平成2年、82歳で没するまで、その生涯において、俳句雑誌『桐の葉』『桐の花』『鷹』『雪』『年輪』を主宰して多くの門人を育てると共に、「中日俳壇」(中日新聞)「南日新聞」(南日本新聞)の選者をつとめる。また、昭和23年刊の第1句集『年輪』以降、没後刊の『欅』に至るまで11の句集、『素逝研究』などの評論・随筆など、数多くの著作を刊行した。

鶏二は、清雅温厚な中に、対象を透徹した眼でとらえ表現した「詠み込んだ写生」の句によって伝統俳句に新境地をひらいた。その作句の姿勢は、「雪月花彫りてぞ詠(うた)ふ」という自身の俳句創作理念に示される。

昭和60年、その功績により、三重県民功労者表彰を受ける。

展示品解説

  1. 双六の花鳥こぼるる畳かな昭和18年作 『年輪』所収 季語「双六」 新年
  2. かんばせにあてて吹くなり獅子の笛昭和18年作 『年輪』所収 季語「獅子」 新年
  3. 原稿 「長谷川素逝」(400字詰・14枚) 『年輪』第六巻第九号(昭和37年9月)に「続・素逝研究」(第46回)-素逝のことども-」として掲載。
  4. 第一句集『年輪』明治23年刊(竹書房) 序 高浜虚子表紙版画 渡邉萬吉
  5. 第二句集『松囃子』昭和25年刊(書林新甲鳥) 題簽 森田沙伊
  6. 『俳句 実作者の言葉』昭和35年刊(近藤書店)

嶋田青峰

(1882年から1944年)答志郡的矢村出身。俳人。

1882年(明治15年)3月8日から1944年(昭和19年)5月31日 答志郡的矢村(現志摩市磯部町的矢)出身 俳人

本名、嶋田賢平。内湾に面した静かな的矢に生まれ育ち、的矢小学校から宇治山田にあった度会郡高等小学校を経て、鳥羽商船予科に入学したが、一年生の途中で東京に移る。東京専門学校(現早稲田大学)を卒業、中学の英語教員や早大講師をつとめ、1908年(明治41年)、国民新聞社に入社。俳人・高浜虚子のもとで文芸欄を担当。虚子退社のあと、学芸部長となった。

俳誌『ホトトギス』の編集を助けていたが、1922年(大正11年)篠原温亭とともに『土上(どじょう)』を創刊。温亭が没した1926年以降は主宰者となった。『ホトトギス』系の立場だが、昭和初期、新興俳句運動が盛んになるにつれ、穏やかな作風ながら、この運動の一翼をになうようにもなる。

太平洋戦争の足音が近づく1941年(昭和16年)2月、俳句弾圧事件に巻きこまれ、治安維持法違反の名で検挙される。喀血がもとで釈放されたが、病床生活が続き、敗戦の報を知ることもないまま、病没した。

句文集『青峰集』(1925年)、『静夜俳話』(同)、『子規、紅葉、緑雨』(1935年)、自句自釈『海光』(同)などがある。弟的浦、長男洋一も俳人。

故郷の的矢を詠んだ句も少なくない。地元の丘には句碑も立っている。
入船を見て立ちつくすふところ手
牡蠣筏(かきいかだ)こゝの入江の潮満つ
真ン中に浮く島の灯や冬港

展示品解説

  1. 秋風に貧しき心顧みぬ 青峰色紙
  2. 鉦叩一つのやうに思はるる 青峰短冊
  3. 嶋田青峰訳 トルストイ『セヴァストオポリ』大正7年刊
  4. 『静夜俳話』大正14年(1925)刊
  5. 『俳句読本』昭和5年(1930)刊
  6. 『青峰集』大正14年(1925)刊

岡野弘彦

(1924年から)一志郡美杉村出身。歌人。

1924年7月7日 一志郡美杉村川上に生まれる 歌人 国文学者

家は代々の神主の家で、父弘賢の長男。川上尋常小学校、神宮皇学館を経て、1943年(昭和18年)国学院大学入学。大学において生涯の師、折口信夫(釈迢空)に出会い、彼の指導する短歌結社「鳥船社」に入り、1947年(昭和22年)から1953年(昭和28年)の折口没年まで折口の家にあって生活を共にし、短歌及び国文学の薫陶を受ける。

1951年(昭和26年)国学院大学に奉職、学者としての生活に入り、以後、学生部長・文学部長を歴任し、現在国学院大学名誉教授。

迢空没後、歌人としての本格活動に入り、歌誌『地中海』同人をへて『人』を創刊主宰。古典文学と民俗学との深い造詣に裏打ちされたその表現は高く評価され、刊行した6つの歌集の内

『冬の家族』により 現代歌人協会賞
『滄浪歌(そうろうか)』により 釈迢空賞
『海のまほろば』により 芸術選奨文部大臣賞
『天(あめ)の鶴群(たづむら)』により 読売文学賞

をそれぞれ受賞した。

また、たびたびNHKTVの「短歌入門」講師を務めるなどして、短歌の一般普及にも努力した。

現在、大学院の講義のかたわら、宮中新年歌会始めの選者と、宮内庁御用掛として皇族方の短歌指導もしている。

展示品解説

  1. 自筆原稿 「古代の霊歌・現代の悲歌」 雑誌「短歌」(角川書店)36巻9号(1989年8月号)p.88からp.91(悲劇の歌人たち<特集>)に掲載された原稿。正式な表題は「古代の悲劇歌-古代の霊歌・現代の悲歌」
  2. 歌集 天(あめ)の鶴群(たづむら) 第4歌集。読売文学賞受賞。旅の歌が多い。表題は『万葉集』遣唐使の母の詠「旅びとのやどりせむ野に霜ふらばわか子はぐくめ天の鶴群」によっている。
  3. 『歌人・岡野弘彦先生の 白崎の歌碑』井原勲著(1994年刊)「注記」に「平成5年6月22日除幕」とある。
  4. 移り行くうなばらの月たましひのいきづくごとくてりかげるなり色紙

横光利一

(1898年から1947年)阿山郡東柘植村および上野町に少年時代在住。小説家。

1898年(明治31)3月17日から1947年(昭和22)12月30日 阿山郡東柘植村(現伊賀市柘植)および上野町(現伊賀市)に少年時代在住 小説家

父横光梅次郎が関西線の加太トンネル工事で柘植村に滞在し、母こぎくと結婚。利一は父の仕事先である福島県の会津で生まれたが、父の仕事で一家は各地を転々とした。父の単身赴任のため、母・姉とともに母の郷里柘植村で小学校時代の大半を送る。大津の高等小学校から三重県第三中学校(現上野高校)に入学。野球・サッカー・水泳などの運動で活躍する一方、卒業時の校友会雑誌には異色の文体の「修学旅行記」や難解な散文詩「夜の翅」を発表している。

早稲田大学に進み、新聞・雑誌に作品を投稿、やがて菊池寛に師事して川端康成を知る。1923年(大正12年)、「蝿」「日輪」を発表。翌年、川端、今東光、片岡鉄兵らと、「文芸時代」を創刊し、「頭ならびに腹」を掲載。新感覚派と呼ばれたこの派の中心作家として小説・評論に活躍した。

中国民衆の五・三〇事件を題材にした「上海」、ヨーロッパノ新心理主義に関心を向けた「機械」「紋章」などが知られる。「純粋小説論」では純文学と通俗文学との融合や、"第四人称"を提唱した。やがて大作「旅愁」では、日本精神と西洋文明との対決を描いたが、未完に終わった。

小中学校時代の大半を過ごした伊賀の地は、横光の事実上の故郷といえよう。中学時代の初恋の体験を短篇「雪解」に描き、戦後の再出発を図りながら病に倒れた。伊賀での幼年時代の思い出を綴った「洋燈」が絶筆となった。

展示品解説

  1. 『日輪』雨過山房松版 昭和10年刊
  2. 『上海』書物展望社版 昭和10年刊
  3. 『旅愁』第一編 改造社 昭和15年刊
  4. 『雪解』養徳社 昭和20年刊
  5. 中河与一宛書簡(大正13年8月1日消印) 中河与一(1897年-1994年)は、香川県生まれの作家。横光・川端らと大正13年『文芸時代』を創刊、新感覚派運動を興す。この葉書は当時京都から出したもの。
  6. 秋の日の反射爐に満つ嫁ぐ人 横光色紙

江戸川乱歩

(1894年から1965年)名張郡名張町出身。小説家。

1894年(明治27年)10月21日から1965年(昭和40年)7月28日 名張郡名張町(現名張市)出身 小説家

本名、平井太郎。筆名はアメリカの小説家エドガー・アラン・ポーのもじり。本籍は津市。父・繁男、母・菊。父が名賀郡の郡書記として名張市新町(現在桝田病院中庭)に住んでいた時に生まれた。父の転勤に伴い、2歳の頃は亀山に住み、翌年名古屋市に移る。1912年(明治45年)、愛知県第五中学校を卒業後、父の破産で朝鮮に渡るが、向学の志を持って上京、早稲田大学に入学。1916年(大正5年)、政治経済学部を卒業後、種々の職業を経験して、1919年(大正8年)11月には三重県鳥羽造船所電気部社員になった。

1923年(大正12年)には処女作「二銭銅貨」を『新青年』に発表。ついで同誌に「心理試験」「屋根裏の散歩者」などを載せ、奇抜な着想と怪奇な内容によって探偵小説界の第一人者として活躍した。

「陰獣」「蜘蛛男」により通俗小説の傾向が強くなり、「黒蜥蜴」や「怪人二十面相」などの少年小説を書くようになった。戦後は海外推理小説の紹介をする一方、1947年(昭和22年)には探偵作家クラブ(後、社団法人推理作家協会)を設立、その初代会長に就任、日本の推理小説の発展に寄与した。

「わが夢と真実」は、彼の回想録ともいえる作品で、生い立ちや青少年時代のことなどが綴られている。生誕地には「幻影城-江戸川乱歩生誕地」の碑が立ち、名張市立図書館には「江戸川乱歩コーナー」が設置されて、多くの資料が集められている。

展示品解説

  1. 『乱歩文献データブック』平井隆太郎・中島河太郎監修 名張市立図書館が出版した江戸川乱歩レファレンスブック1
  2. 『犯罪幻想』 短篇一つに一枚ずつ棟方志功の版画が入った贅沢本。11の短篇が入っている。「心理試験」は暗号を使って有名な大正14年2月の作品。
  3. 東野辺薫宛書簡 1945年、福島疎開前後の書簡。東野辺は福島県在住の芥川賞作家。乱歩とは早稲田の同窓である。
  4. うつし世はゆめ よるの夢こそまこと 乱歩色紙