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特別展「丹羽文雄追悼」

2005年4月20日、四日市市出身の作家、丹羽文雄氏が死去しました。享年100歳。

三重県ゆかりの作家丹羽文雄氏を追悼し、特別展を開催しました。

平成17年4月23日(土曜日)から5月29日(日曜日)

丹羽文雄プロフィール

1904年(明治37)11月22日 から 2005年(平成17年)4月20日

四日市の真宗高田派の末寺崇顕(そうけん)寺の長男として生まれる。4歳の時、母が旅役者と出奔する。このことが、作品のモデルだけでなく女性観にも深い影響を与えた。

富田中学校(現四日市高校)卒業後、文学を志し、早稲田大学第一高等学院、同大学国文科へと進む。在学中から同人誌に多くの作品を発表し、寺崎浩、火野葦平らを知る。卒業後も半年程東京に残るが、志半ばで帰郷、僧侶生活に入る。しかし、文学への未練断ち難く、永井龍男の勧めで書いた「鮎」(1932年)が好評だったこともあり、これを機会に再度上京する。上京後、 「贅肉」の"生母もの"や「海面」の"マダムもの"という系列の愛欲の世界を鋭く描いた作品を発表して注目され、流行作家となる。戦時中は報道班員として、「還らぬ中隊」などの"戦記もの"を発表。戦後は、愛欲を中心とした「鬼子母神界隈」などの風俗小説を多く発表した。しかし、中村光夫との風俗小説論争後、「幸福への距離」などの"実験小説"を試みるように なった。「厭がらせの年齢」は今日的問題を含み、評判をよんだ。1953年(昭和28年)発表の「青麦」で父親を書き、父親を考えることから宗教を真正面からとらえるようになった。そして、親鸞の思想をテーマとした"宗教小説"(「親鸞」「蓮如」)へと進んだ。

他方、個人誌『文学者』を刊行し、新人の育成に努めた。四日市市立図書館には「丹羽文雄記念室」が設置されて、多くの資料が集められている。

展示資料

  • 自筆色紙「丹羽文雄」
  • 自筆色紙「小雨留春」
  • 色紙「丹羽君の像」(丹羽文雄の似顔絵。作者不明。讃は丹羽文雄の自筆)
  • 丹羽文雄「鮎」(昭和10年。文体社。第一創作集)

自筆原稿

  • 原稿「たがね」(「いさり火」昭和49年に発表。たがねせんべいへの愛着を描いた随筆)
  • 原稿「作者の言葉」(「シナリオ文学」昭和11年10月号発表。「職業と姫君」という映画のシナリオについて書いたもの)
  • 原稿「自然」(初出不明。小説における自然描写の重要性を述べている)
  • 原稿「我が文学の立場」(初出不明。自分の目指す文学について率直に述べたもの)
  • 原稿「序に代えて」(小泉譲「死霊の宿」の序文)
  • 原稿「一色淑子 第四回」(「文芸雑誌」昭和11年4月号発表。)

戦争と丹羽文雄

  • 丹羽文雄「還らぬ中隊」(昭和14年。中央公論社)
  • 丹羽文雄「海戦」(昭和17年。中央公論社)
  • 丹羽文雄「ソロモン海戦」(昭和18年。国民画報社)
  • 書簡(昭和16年2月13日付。戦地の田村泰次郎宛)
  • 写真(田村泰次郎と談笑する丹羽文雄)
  • 新聞切り抜き(田村泰次郎のエッセイ「丹羽文雄さん」昭和48年7月17日付)
  • 書簡(昭和18年9月10日付。淀野隆三宛)
  • 少女クラブ 昭和21年9月号(講談社。丹羽文雄「黒猫」所収)