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第27回企画展「田村泰次郎と戦争」

1 戦前の略歴

1911(明治44)年11月30日三重県三重郡富田村(現四日市市)に父左衛士、母明世の次男として生まれた。

1924(大正13)年に旧制三重県立富田中学校(現四日市高等学校)に入学し、1929(昭和4)年に卒業した。

1929(昭和4)年に早稲田大学に入学し、在学中から小説を書き始め、同人雑誌『東京派』『新科学的文芸』『桜』などに小説や論評を発表する。1934(昭和9)年早大卒業後、小説『選手』によって文壇に登場、以後めざましい活動をし、文壇に確固たる地歩を固める。

2 戦中期

(1)軍歴

1940(昭和15)年5月、29歳で陸軍に召集される。久居33連隊で教育訓練ののち、同年11月、再召集で京都深草の連隊に配属、二等兵として中国山西省に出征、その後、敗戦まで中国大陸を転戦している。1945(昭和20)年河南省保定で国府軍の武装解除を受ける。戦地では幹部候補生試験を拒否して、一兵卒のまま過ごし、軍曹で敗戦を迎えた。

資料写真

(2)和平劇団

田村は北支派遣・独立混成第四旅団(独立歩兵第13大隊)の政治工作班に所属していた。宣撫班員(宣伝活動員)として、中国人俳優を使った「和平劇団」を組織し、中国人民と深く関わっていた。田村がこの劇団のために書いた「治安強化話劇 郷土英雄」という脚本を、三重県立図書館の田村泰次郎文庫で保存している。

郷土英雄

(3)軍事郵便

田村の書いた書簡は、三重県立図書館の田村泰次郎文庫に56通保存されている。そのうち、戦地から家族にあてた書簡は52通ある。その大半は軍事郵便のため、発信地や発信日は不明である。なかには偽名を使っているものがあり、当時の情勢を窺い知ることができる。発信時期は家族からの書簡、特に母・明世などの書簡の内容から類推して、1943(昭和18)年から1945(昭和20)年にかけてであると判断できる。 戦地からの書簡の内容は、検閲を前提にしていることもあり、定型的な文言が多い。それでも彼の肉声や従軍生活の持つ意味が実感されてくる。

田村の書いた書簡

3 戦争文学

田村が長い大陸での生活から日本の敗戦によって解き放たれ、内地へ復員して、1946(昭和21)年に最初に書いた作品は『肉体の悪魔』である。中国北部、石太沿線の山西にある日本陸軍の駐屯地を中心に展開されるこの作品は、日本の一兵卒と中共八路軍の女捕虜との愛と苦悩が描かれている

その他、戦場のある中国の奥地へ5人の売春婦を送り届ける任務を負った軍曹の物語で戦場という極限下で人間の抱える性の問題を突きつけた『蝗』、戦争映画を見てかつて自分がいた中国大陸の日本軍の残酷な隊長を思い出す『裸女のいる隊列』など、戦争体験者ならではというべき視点で、数多くの戦争に関わる作品を描き出している。

田村泰次郎の主な戦争文学

『銃について』『応召前後』『集団生活の一面』『郵送船にて』『沖縄に死す』 『肉体の悪魔』『渇く日日』『春婦伝』『大行山の絵』『檻』『故国へ』『現代詩』 『雁かへる』『青鬼』『戦場の顔』『ある死』『途上』『黄土の人』『地雷原』 『失われた男』『蝗』『裸女のいる隊列』

肉体の悪魔

春婦伝

戦場の顔

展示期間 平成20年7月5日(土曜日)から平成20年7月21日(月曜日)