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第28回企画展「農民詩人・錦米次郎」

1 略歴

錦米次郎は1914(大正3)年6月28日三重県飯南郡伊勢寺村野村(現松阪市)に農家の次男として生まれた。高等小学校を卒業した後、京都三条の西陣帯地問屋に丁稚として働いていた。兄の急死により帰農して、郷土の短歌誌などに投稿している。1934(昭和9)年、伏見騎兵二十連隊に入営し、2年後に除隊した。1937(昭和12)年に召集を受け、戦場にて三重県出身の農民運動の闘士野口平民を訪ねて意気投合し、厭戦的となり、戦場通信などを郷里の友人などに送っている。1939(昭和14)年に召集解除されたが、1944(昭和19)年に再召集され、ベトナムに派遣され終戦を迎える。その間、島木健作の『生活の探求』、松田甚次郎の『土に生きる』や小熊秀雄を読む。1946(昭和21)年4月に復員し、創刊間もない『コスモス』(秋山清編集)に接し、これに投稿を始める。一時、村の農業会職員となり、青年たちと郷土新聞を出し、反戦平和活動を展開している。1947(昭和22)年に第一詩集『日録』を出版している。また、花岡供米事件が起こり、公判を傍聴し、詩「花岡供米事件」を書いている。1949(昭和24)年に第二詩集『旅宿帳』を出版し、この年、『コスモス』同人となる。1950(昭和25)年に『三重詩人』を創刊し、第8号まで出し、のち浜口長生らと第二次『三重詩人』を創刊した。また、『詩と詩人』の同人となり、民主主義詩の創造を目指し活動した。1954(昭和29)年に県下の青年美術家集団と共同し、反戦平和のための詩と絵の展覧会を3都市にて開催して、松川事件特集号を出し、県平和祭に詩劇をもって参加する。1957(昭和32)年に復刊『コスモス』の同人となり、また、新日本文学会員、中日詩人会員となる。1962(昭和37)年に第三詩集『百姓の死』を出版し、中日詩人賞を受賞する。1979(昭和54)年に中日詩人会会長に就任し、1992(平成4)年には三重県詩人クラブ代表に就任した。2000(平成12)年2月12日、85歳の生涯を閉じた。

錦米次郎

2 反戦詩

錦米次郎の作品のうち反戦詩と呼ばれるものは、戦中戦後の一時期をのぞいて見られず、彼の全作品を通して見ればむしろ非常に少ないと言える。彼の詩は、反戦詩とはいうものの、声高に反戦を叫ぶものではなく、直接的に血塗られた戦争の悲惨さを語るものでもない。多くは客観的な事物の描写を通して、読むものの心に訴えかける静かな詩である。 第三詩集『百姓の死』の中の「光と影について」では、1945(昭和20)年8月6日に原爆を投下され焼き尽くされたヒロシマをうたっている。

「空が光ったとおもったら倒壊していただろう。
光ったとおもったら
皮膚がぶらんぶらんさがったろう。
頭も頬っぺたも、つるんつるん
赤剥けの血むけだったろう。
そいつらが泳ぐようにさまよっていたろう。
そこら中、火の海だったろう。
パン竃の中のパンどものように
ぶくぶくにふくれたのが
ごろごろ、道路にころがっていたろう。
そいつらから黒い脂がにじんでいたろう。
それは君の母であり妹であった。
父であり子供たちであった。
それは私の友でさえあった。
一九四五年八月六日
君もあの閃光を記憶する-。
あそこの銀行の花崗岩の上に残された
考える男、ロダンではない。
マチス、ピカソ彼らにもこれほど描けはしなかった。
あの影は誰が刻んだのか。
その街がその日どんな風だったか。」
(「光と影について」錦米次郎著より抜粋)

詩集 百姓の死

3 農村と農民を描いた詩

錦米次郎の真骨頂は、やはり農民としてのものである。農民の置かれた立場がどのようなものであったかのみならず、その位置を農民自身がどのように認識してきたかを鋭く訴えている。

1962(昭和37)年、中日詩人賞に輝いた第三詩集『百姓の死』の序で中野重治が錦米次郎について以下のとおり評している。

「錦という人は、私には第一に百姓である。農民といっても無論いいが、農民は農民でも古い百姓という言葉のあてはまるような人間である。(中略)彼の話もいっこうハイカラでない。(中略)錦の世界にはほんとに百姓らしいユーモアもある。(中略)面白い世界もある。(中略)むろんこのへんは、どこまで行っても百姓の苦痛から来ている。それも、『牛が沼田で苦しむそのような』苦痛であり、錦本人が、『いまは凍っている田土の中で考え』ている『田螺』そのものだといったところから来ているにちがいない。」
(詩集『百姓の死』錦米次郎著、序に寄せて・中野重治より抜粋)

また、1966(昭和41)年に発行された『詩の中にめざめる日本』(真壁仁編,岩波新書)に「根土」が収録され、1969(昭和44)年に発行された『土の詩・ふるさとの詩』(伊藤信吉編)に「菜種田にて」「新しい種」「新浦島譚」「銭の村」「収穫記」「百姓の死」が収録されている。

4 社会問題を描いた詩

錦米次郎は多くの社会問題を描いた作品を残している。彼の心は、農民から土地を奪い、自然を破壊するものに対し激しい怒りとなって噴出する。
昭和の高度成長期に四日市の石油化学コンビナートが、かつて農地であった土地の上に巨大な姿を現し、公害の発生源となる。 彼は、化学工場群の一角にあるクラレ油化株式会社(現三菱化学株式会社)のプラントを訪れ、赤錆びた廃液が流れ出るままに放置された幾つかのドラム缶を見て、1973(昭和48)年6月にルポ「クラレ油化行」を発表している。また、この頃『三重詩人』85集においても、エッセイ「われわれにとって四日市とは何か」を発表している。

成田空港建設においては、国家権力による農民の土地収用に抗議して、三里塚に馳せ参じている。『三重詩人』107集掲載の「道」にこの時の様子が描かれている。

彼の晩年の戦いは、芦浜原子力発電所建設反対運動であった。彼は「芦浜行」という作品の中で、原発反対を訴えている。

錦米次郎と妻

展示資料

  1. 詩集
    『日録』(1947年)、『旅宿帳』(1949年)、『百姓の死』(1977年)、『錦米次郎全詩集』(1998年)
  2. エッセイ集
    『百姓の死』(1977年)
  3. 同人参加誌
    『三重詩人』、『新日本文学』、『コスモス』、『幻野』
  4. 寄稿誌
    『現代詩』、『農民文学』、『原詩人』
  5. 掲載詩集
    『三重県詩人集』、『中部日本詩集』、『詩の中にめざめる日本』、『近代詩集(三)』
  6. 日記
  7. 詩ノート
  8. 従軍手帳
  9. 軍隊手帳
  10. 農民文学特別賞(表彰状、楯)
  11. 書 2点
  12. 原稿(「豚と牝牛」、「南京戦記-わが軍隊手帳」)
  13. 松阪市内中学校-詩「城址」研究授業の実践資料
  14. 中支戦場の作品ノート(写し)
  15. 写真

展示期間 平成20年9月6日(土曜日)から平成20年9月21日(日曜日)