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第45回 尾崎行雄 郷土が支え続けた「憲政の神様」

三重県選出の国会議員で、民主主義と世界平和の実現に一生を捧げ「憲政の神様」「議会政治の父」と呼ばれた尾崎行雄に関する関連資料の展示・紹介を行いました。

  • 展示期間 平成17年7月1日(金) から 平成17年10月7日(金)
  • 解説
  • 参考資料

参考資料一覧 (2005年7月現在)

書名 編著者 出版者 出版年
尾崎咢堂全集 全12巻 尾崎 行雄/著 尾崎行雄記念財団 1958年
尾崎行雄全集 全10巻 尾崎 行雄/著 平凡社 1926年
咢堂自伝 尾崎 行雄/著 咢堂自伝刊行会 1937年
尾崎行雄の政治理念と世界思想の研究 総合研究開発機構 1992年
咢堂 尾崎行雄 相馬 雪香,富田 信男,青木 一能/編著 慶応義塾大学出版会 2000年
尾崎行雄 その人と思想 伊佐 秀雄/著 朋文堂 1945年
尾崎行雄伝 伊佐 秀雄/著 尾崎行雄伝刊行会 1952年
尾崎行雄の生涯 尾崎咢堂記念館保存会 1982年
憲政の人・尾崎行雄 竹田 友三/著 同時代社 1998年
咢堂尾崎行雄ものがたり 大塚 喜一/著 つくい書房 2002年
物語・20世紀人物伝 5 ぎょうせい 1999年
尾崎行雄の選挙 阪上 順夫/著 和泉書院 2000年
松阪大学地域社会研究所報 第9号 松阪大学地域社会研究所 1997年
松阪大学地域社会研究所報 第10号 松阪大学地域社会研究所 1998年
松阪大学地域社会研究所報 第11号 松阪大学地域社会研究所 1999年
犬養毅と尾崎行雄特別展展示目録 憲政記念館/編集 憲政記念館 1991年
奥熊野百年誌 武上 柴耕子/著 武上千代之丞 1978年
大瀬東作伝 佐々木 仁三郎/編著 三重県町村会 1971年
やっぱり風は吹くほうがいい 〔梅川 文男/著〕,梅川文男遺作集編集委員会/編 盛田書店 1969年
三重政界の闘将たち 川崎 秀二/著 内外政局研究会 1974年
三重県選挙誌 三重県選挙管理委員会/編集 三重県選挙管理委員会 1972年
自由民権運動 栗原亮一の軌跡 嬉野町歴史資料館/編集 嬉野町教育委員会 1994年
皇国 昭和4年1月号 (「尾崎行雄氏の失言と神宮皇學館当局の責任問題に就て」所収) 皇国発行所 1929年
日本政治史に残る三重県選出国会議員 広 新二/著 広 新二 1985年
日本政治家100選 鏑木 清一/著 秋田書店 1972年
人物で読む近現代史 上 歴史教育者協議会/編 青木書店 2001年
歴代内閣物語 上 前田 蓮山/著 時事通信社 1968年
大隈重信と政党政治 五百旗頭 薫/著 東京大学出版会 2003年
大隈重信関係文書 5 日本史籍協会/編 東京大学出版会 1984年
福沢諭吉書簡集 第2巻 福沢 諭吉/〔著〕,慶応義塾/編 岩波書店 2001年
考証福沢諭吉 下 富田 正文/著 岩波書店 1992年
婦女新聞 第46巻 福島 四郎/編集 不二出版 1989年
目で見る議会政治百年史 衆議院,衆議院/編集 大蔵省印刷局 1990年
明治大正昭和の人々 佐佐木 信綱/著 新樹社 1961年
人づくり風土記 24 加藤 秀俊/〔ほか〕編纂 農山漁村文化協会 1992年
尾崎行雄と議会政治特別展 没後五十年 衆議院憲政記念館/編集 衆議院憲政記念館 2004年
近代日本の思想 2 和田 守/〔ほか〕著 有斐閣 1979年
咢堂言行録 石田 秀人/著 時局研究会時局社 1953年
民権闘争七十年 尾崎 行雄/著 読売新聞社 1952年
咢堂回顧録 上巻 尾崎 行雄/著 雄鶏社 1951年
咢堂回顧録 下巻 尾崎 行雄/著 雄鶏社 1952年
志士処世論 尾崎 行雄/著 尾崎行雄 1887年
日本議会政治の歩み特別展展示目録 第2回 憲政記念館/編集 憲政記念館 1995年
近代日本の政治家 岡 義武/著 岩波書店 1990年
大正時代を訪ねてみた 皿木 喜久/著 産経新聞ニュースサービス 2002年
日本政治百年史 金森 徳次郎,山浦 貫一/共編 中部日本新聞社 1953年
憲政秘録 国立国会図書館憲政資料室/編纂 産業経済新聞社出版局 1959年
OZAKI YUKIO 咢堂 尾崎行雄 没後五十年記念パーティー 尾崎行雄記念財団 2004年

解説

多くの人に「常識」のように知られていたことも、時代のうつりかわりとともに、人に知られることが少なくなっていく、といった事がよくあります。戦前・戦中を知っている世代なら、「憲政の神様」「尾崎咢堂[がくどう]」は、「常識」的に知っていたかも知れません。本しか知らない若い世代はもちろんのこと、中年世代にとってさえ、その名前は全く縁遠い、せいぜい「日本史の中の知識」にしか過ぎないでしょう。尾崎行雄(号:学堂・愕堂・咢堂)は、三重県、中でも伊勢・志摩地方を選挙地盤にして、国会誕生の明治23年(1890)から、戦後の昭和28年(1953)まで、足かけ64年もの間、衆議院議員として国政の中心にいました。これは世界的にも珍しい事です。尾崎の生涯は、近代日本の歴史の一部といえます。その間ずっと、私たちの郷土三重の人々が、尾崎を支える中心であり続けたのです。

尾崎は、数多くのエピソードを残しています。尾崎の発言や行動は、時に人々に支持され、時に激しい攻撃を受けました。『咢堂自伝』では、同時代の政治家たちが、まるで小説かドラマのように、実に生き生きと描かれています。尾崎の演説は、その見事な論理と語り口が、「文学」的でさえあります。

尾崎行雄については、今なお国の内外で、論じられ、研究されています。この「地域ミニ展示」には、正直、少し荷の重い「巨人」です。それをあえて取り上げたのは、地元に生まれながら、尾崎をあまりよく知らない人たちが多くなった今日、「私たちの郷土にもこんなユニークな人がいたんだ」と、少しでも知って頂きたいからです。以下、尾崎行雄と、彼に関する当館所蔵資料を紹介させていただきます。(なお、文中の敬称はすべて省略しました。また、引用文は、旧仮名づかいは現代風に改めるなど読みやすくし、難しい語句には[ ]で注を加えました。)

(写真:司法大臣時代の尾崎行雄(以下、写真は『咢堂自伝』より引用))

1 幼少期

尾崎行雄は、安政5年(1858年)年に、相模国、今の神奈川県に生まれました。 明治元年(1868年)、上京し、明治4年(1871年)まで東京で過ごします。その間、平田鉄胤[かねたね/国学者]について古典を学びました。

父行正[ゆきまさ]は勤王の志士で、明治維新の後は役人となり、全国を転々とします。尾崎も、明治4年(1871年)には高崎へ、そして翌5年(1872年)には、伊勢に転住し、山田英学校(現伊勢市)で英語を学びます。しかし明治7年(1874年)には再び東京へ移っていますから、尾崎が伊勢に住んだのは、この約2年間です。

慶応義塾では、福沢諭吉のほか、門野幾之進[かどのいくのしん]にも指導を受けます。門野は鳥羽出身、後の千代田生命保険の創業者で、後に尾崎と選挙を戦いもします。明治9年(1876年)には慶応義塾を退塾しますが、福沢とはその後も、師弟の関係が続いていきます。

その後は、工学寮(後の帝国大学工科大学)で学んだり、加藤桜老[おうろう]について漢学を学んだりしています。尾崎は、決して直線でない学歴の中で、和・漢・洋の三学を身につけて行きました。

2 政治家への道

尾崎は社会に出ると、新聞を中心に、翻訳や雑誌に携わったり、一時期は政府の役人を勤めたりもしています。そして、明治15年(1892年)、日本最初の代表的政党、立憲改進党の創設に参加します。

明治18年(1885年)、尾崎は、東京府会議員に選出されます。政治家としての第一歩です。同時期に、尾崎は新聞記者でもありました。今では考えにくいことですが、当時は可能だったのでしょう。

明治20年(1887年)末、東京追放の処分を受けた尾崎は、翌21年(1888年)、アメリカ・ヨーロッパへ約1年間外遊します。尾崎らの一行は、「日本政府に追放された自由派」として、注目を浴びます。

尾崎は、そこでの見聞を記事にまとめ、日本に送ります。それは「欧米漫遊記」として新聞に連載されました。そこには、当時の先進国を目の当たりにして得た感想が率直に書かれています。...共和国の大統領は、君主国の帝王と対等の地位に立つ者なれば、米国人民はこれに壮大なる官邸を与え...もってその威儀品格を保たしむ。この官邸は、日曜日のほかは毎日、公衆の来観を許し、かつ、一週間に一日は何人[なんぴと/どんな人]にても、大統領に面謁[めんえつ/目上の人に会うこと]して握手の礼をなすことを得る規則なるが、小生[しょうせい/私]が大統領の官邸に至りたる時は、毎週二日、用事なき人に面会する由[よし/内容]を記せる張り札ありたり。用事ある者は何時にても面会するを得べきこと勿論[もちろん]なり。しかして、大統領に面会して握手の礼をほどこすには、添え書きもいらず、単に玄関に登りて面謁したき由を申し入るれば、ただちに客室にて面会するを得べし。

...その簡易にして繁文縟礼[はんぶんじょくれい/規則等が細かくわずらわしいこと]の弊[へい/悪いこと]なく、又、無益[むえき/利益のない]の空威張[からいばり]をなさざることを感ずべし。...自由と簡易の精神は、ひとり政事堂、大統領官邸等に充満するに止どまらず、いずれの官衙[かんが/役所]に至るも、その簡易にしてかつ自由なるに驚かざるはなし。

(『尾崎咢堂全集 第三巻』)

3 憲法公布・国会開設とともに衆議院へ

明治22年(1889年)2月11日、大日本帝国憲法が公布されます。翌23年(1890年)、第1回衆議院選挙に尾崎行雄は三重第5区から出馬します。退官後の父が住み、すでに「第二の故郷」となっていた三重の地は、選挙に有利だったのです。当時の三重5区は、度会・答志・英虞・北牟婁・南牟婁の5郡(今の伊勢・志摩・東紀州地域)でした。以来、昭和28年(1953年)の第26回選挙で落選するまで、尾崎は三重県選出の衆議院議員であり続けます。

明治25年(1892年)の第2回選挙では、「民党」の尾崎は、政府側からの露骨な弾圧・妨害を受けました。明治35年(1902年)の第7回選挙から大正6年(1917年)の第13回選挙は大選挙区制で行われ、尾崎の選挙区は、津市と四日市市を除く三重県全域(「郡部」)となりました。昭和7年(1932年)の第18回選挙の時、ヨーロッパ滞在中の尾崎はあえて帰国せず、後援者たちが立候補を届け出、候補者不在のまま、選挙戦を戦いました。昭和17年(1942年)の第21回選挙では、選挙直前に尾崎は「不敬罪」で起訴[きそ/訴えを起こす]されながら、「大政翼賛会」の「推薦」候補と、非「推薦」候補として戦います。
戦後、昭和21年(1946年)の第22回選挙は、「全県1区」の大選挙区制における選挙でした。翌22年(1947年)の第23回選挙からは、県下南北2区に分かれての中選挙区制における選挙となりました。

尾崎は、社会情勢と選挙制度が激しく移り変わる時代の中で、26回の選挙を戦ったのです。

4 尾崎の選挙

尾崎行雄の長い政歴を支え続けたもの(人や考え方)は、独特でした。

(1) 演説会や揮毫を資金源に 尾崎が最初に演説会に入場料を取ったのは、大正10年(1921年)で、料金は10銭から50銭、ちなみに当時は、牛乳が8銭、石けんが15銭の時代でした(『憲政の人・尾崎行雄』)。また、昭和5年、当時の東京市議会議員・本多市郎から演説を頼まれた際、尾崎は次のように答えたそうです。一体あなたは何のために経費をかけてまで演説会を開き、人にただで聞かせる必要があるか。経費は聴く方が負担するのがあたりまえで、演説会をやるなら入場料を取ってやるものだ

(『尾崎咢堂全集 第十二巻』)

また、尾崎には「咢堂会」という後援会が全国各地にありました。その規定の一項に、揮毫[きごう/字や絵を書くこと]に関する次のような規定がありました。一、揮毫 大小長短を問わず、すべて一枚、金十円以上とし、書体および文句の注文には一切応ぜざる事。

昭和十四年 咢堂先生後援会 (『尾崎行雄の選挙』)

実際、尾崎の書は人気があり、高く売れたことを、作家・生方敏郎[うぶかたとしろう]が書いています(『尾崎咢堂全集 第十二巻』)。尾崎の選挙と政治活動は、それを支持する人々から広く資金を得ることで支えられていたのです。尾崎は、「誰がための投票か」と題して、次のように書いています。 選挙人は、自分達の総代を選む[選ぶ]ために投票を入れるのであって、候補者のためにこれを入れるのではない。自分達の総代ならば、これに関する費用は、自分達が醵出[きょしゅつ/出し合うこと]すべきはずであって、候補者に支弁[しべん/負担]せしむべきはずのものではない。...議員は人民の生命財産の番人である。選挙人はこの番人を頼むために投票を入れるのである。しかるにわが国人は、選挙費用は頼まれる方、すなわち番人が受け持つべきものと思っている。...

一般人民が、選挙費用を負担せず、候補者をして、これを負担せしむる限り、国会は必ず増税機関となり、又、少数なる特権階級のために、厳刑酷罰[げんけいこくばつ/むごくきびしい刑罰]をもって多数者を監禁圧殺する機関となる。わが衆議院のごときは、すでにその傾向を生じている。...

(『尾崎咢堂全集 第八巻』)

(2) 地元のために働かない 志摩郡の郷土史家・中岡登は、尾崎を支持する地元の様子を、「わが立神[たてがみ]村と尾崎先生」と題して次のように書いています(立神村は、阿児町を経て、現志摩市の一部となっています)。 ともかく立神では、先生を政治の神様のごとくに尊敬している人が多く、この村で七十歳以上の人々で、かつて衆議院の選挙に尾崎行雄以外の名を書いた人を探すことは困難でしょう。 先生は常に選挙区民と話し合ったり遊説して回られはしたが、選挙の時にだけ選挙区に頭を下げて回ったり、又議会で選挙区の利益のために働く様な行為は決してせられなかった。選挙民は先生の高潔なる人格を信頼し、地域のためにはなんら働いて下さらない先生であることを承知の上で、国のために働いてくださる人として先生を強く支持していたわけであります。(『尾崎咢堂全集 第十二巻』) また、武上千代之丞は、「尾崎咢堂と紀南」と題して、次のように書いています。 そして咢堂の演説は選挙民の利益になる、おもねるようなことは言わず、むしろ反対に、地方人が、道路や利権関係の地方問題でわざわざ上京しても「それは地方議員に言いなさい」と取りあげず、紀勢鉄道速進運動に、町村長らが出かけて頼み込んでも「今日はもはや汽車の時代でない。いまに自動車時代が来る。道路運動をやりなさい。」といって動かなかった。ただ最後の紀勢鉄道建議案提出のときには、地元議員の一人として署名した。恐らく咢堂が地方問題で署名した唯一のものではないかと思う。(『奥熊野百年史』) さらに、元松阪市長の梅川文雄は、「咢堂死す」と題して、次のように書いています。孤高の政治家であり、軍閥ファッショ時代には、孤立無援の政治家であった。政界にあって、孤立無援のこの政治家を支えていたのは、実にわが三重第二区の選挙民であった。...尾崎行雄は偉大であった。彼を偉大にした三重第二区の選挙民の存在も、また偉大であった。世界から讃えられてもよいと思う。尾崎代議士を選出しても、政府から補助とるのに骨折ってくれるわけではない。道ができ、橋がかかるわけではない。これを百も承知で、辛抱強く、二十五回もあえて推してきた第二区選挙民の清純さは尊い。(『やっぱり風は吹くほうがいい』)

(3) 自分で立候補しない 三重咢堂会会長・阿竹斎次郎(当時)は、「三重咢堂会の仕事」と題して、次のように書いています。 咢堂会の性格は、咢堂先生の主義主張を景仰敬慕[けいこうけいぼ/うやまいしたうこと]して、先生を衆議院にお送り届けることであった。

元来咢堂先生は、総選挙に際し御自分から立候補されたことがないので、咢堂会は、勝手に立候補の法令上の推薦手続を取ることを最も光栄としたのであった。従って、選挙費用のごときは一切を推薦者の負担とし、金の掛からないよう、いわゆる手銭手弁当が自然永い間の習慣となっていた。(『尾崎咢堂全集 第十二巻』) この文章の最後に、阿竹は次のように書いています。そこには、尾崎の、選挙民と代議士である自分との関係についての考えが示されています。 咢堂先生は常に、『自分が国会で、憲政の功労者なりとか、あるいは多年国会に議席があるとかで表彰されたが、自分はただ人形なので、それは人形造りの選挙民が表彰されたことである』と言って選挙民を喜ばせられた。

5 政治家として-その1-東京市長の9年間

尾崎は、衆議院議員のまま、明治36年(1903年)から明治45年(1912年)まで、東京市長(2代目)を務めています。現在では考えにくいことですが、当時は可能だったのです。

東京市長としての尾崎について、伊佐秀雄は次のように書いています。 ...在職九年余にわたる東京市長時代における外債募集、市電市有等 に示したる手腕も、実際政治家の一面を余すところなく示すものとして見逃すことはできない。これらの手腕に全然目を覆うとするも、星亨[ほしとおる/当時の有力政治家]等によってさんざん荒らされた東京市会を牛耳って[ぎゅうじって/支配して]十年近くも市長の職にあり、しかも在職中一つの疑獄の件すらも出さしめなかったというに至っては、氏の高潔なる人格の反映であるとはいえ、それだけでも市政の隅々にまで目のとどく、実際政治家としての卓越せる手腕を物語るものではあるまいか。(『尾崎行雄 その人と思想』) 在職中尾崎は、アメリカに桜を贈っています。後にワシントン名物になったポトマック河畔の桜がそれです。これについて尾崎は、次のように書いています。 日露戦争の際に米国は日本に対して、多大の好意を示した。... この親切に対し、相当な謝意を表したいと思う心は、我同胞[わがどうほう/日本国民]の中にかなり強かった。あたかも好[よ]し、時の大統領タフト夫人の発案で、華府[かふ/ワシントン]のポトマック河畔[かはん/川のほとり]に、日本の桜樹を移植しようという企[くわだ]てがあった。私は好い機会と思い、東京市からこの桜樹を寄贈すべく市会に諮[はか]ったところ、大賛成であった。 (『咢堂自伝』) 太平洋戦争が始まると間もなく、あの木がみんな切り倒されたと新聞に出ていたが、私はこの新聞記事を信じなかった。真珠湾の不意打ちにはアメリカ人もずいぶん怒ったろうが、そんなバカなことはやるまいと思っていた。はたして桜は戦争中も無事に残った。

(『民権闘争七十年』)

また、尾崎はこの時期に、最初の妻繁子を亡くし、二人目の妻テオドラを迎えています。

6 政治家として-その2-普通選挙運動(女性参政権)

大正8年(1919年)に尾崎は、すでに女子参政権を主張していたと、山本四郎は『評伝 原敬[はらたかし]』の中で指摘しています。当時の自由主義的政治家の中でも、尾崎の考え方は最も「進歩的」かつ「過激」でした。それは、戦後になってやっと実現しました。

「週刊婦女新聞」昭和5年(1930年)11月16日号に、「講壇演壇 婦人賛成の根本義」という文章があります。その中で尾崎は次のように語っています。...これ[参政権]は人間である以上、絶対に必要なことで、犬や猫なら、それは人間の作った法律でも取り締まられるか知れないが、婦人も男子同様人間であるためには、他人である男子の作った法律の下に甘んじてゐるわけには行かないのであります。もし他人の作った法律に満足するとなると、それでは人間ではなくなります。そこで、婦人もやはり参政権を得て、男子同様に自分の権利を護らなければなりません。...

我が国の男子は、四十年間この不正[不正選挙]を繰返して来たもので、実に馬鹿げた事であります。健全な肉体には何時も病気がないのと同じように、健全な参政権の行使には、常に不正な政治はないのであります。

しかるに、この四十年間失敗を繰り返してきた人々が、今、婦人の参政権問題に直面して、婦人には選挙知識がないとか、政治教育が不足しているとかいうのは、実に滑稽千万[こっけいせんばん/ばかばかしくてならない]であります。もしこの点で婦人参政権に反対するのであったら、現在行われている男子の選挙権全部も取り上げなければならなくなります。...

...我が国における立憲政治を本当に試して見る上からも、また国のためにも、是非婦人の参政を実施して見る必要があると思います。

(『婦女新聞 第46号』)

7 政治家として-その3-昭和12年(1937年)の演説

尾崎は、昭和7年(1932年)の5・15事件で、自由民権運動以来の盟友・犬養毅[いぬかいつよし/当時の首相]を失いました。軍部が力を強め、尾崎らが生涯かけて追求した「憲政[憲法にもとづいた政治]」の実質が危うくなりつつあった昭和12年(1937年)の第70議会、尾崎は、自分も襲撃されることを覚悟し、決死の覚悟で、国会で演説します。...軍部はあくまでも忠良でなければならぬものであると同時に、自分で動いては絶対に相成らぬ[あいならぬ/いけない]ものであります。すべて、大元帥陛下の命令、それは間接には内閣で決定する、...その手をへずして動いてはならぬのであるが、ときどき動くように見えるのであります。 五・一五事件、決して誰も命令はしない。二・二六事件、誰も命令はしない。軍部はまず自由に一部分が動いたのである。かくのごときものが軍部から出たということは、われわれは軍部のために惜しむところであります。どうか将来再びかくのごときものの出ないように致したいのであるが、それをするのには、軍部はこの事件に対してよほど御遠慮なさらなければならぬと思います。...

...どうか将来は、ああいうことがあったがために軍人がみな肩身が狭くなって、人の前に出ても謹慎しておるという実態を示したいのであります。これが皇軍のためには最も必要なことと思う。やがて二・二六事件が起こった。たいへんに大仕掛けである。 陛下の重臣は幾人も殺された。驚くべき事態であります。まさしく国において、こういう事態の起こったことはほとんどありませぬ。実に世界に対して恥ずかしいことである。こんどは謹慎したか。致しておるのでありましょう。ただ私どもの耳目[じもく/目や耳]にはそれがわからない。何だか軍人の肩はいよいよ怒[いか]って偉くなったように見えます。これではまた起こります。...これを率[ひきい]る上の方においてはどうぞお考えを願ひたい。

(『尾崎咢堂全集 第九巻』)

8 政治家として-その4-昭和21年(1946年)の演説

敗戦の翌年、憲法改正案が上程された第90議会、尾崎は「新憲法案」に対する所信を演説します。 まことに良い憲法の修正になりましたについては、私は満腔[まんこう/心から]の賛意を表するのでございます。...ただ、かくのごとき良い憲法を行うに当たっては、よほど良い心掛けがなくては実行出来ないと思いまするが、いかなる心掛けがあるかを、委員長はじめ、主として満場の諸君にうかがいたいというのが私の質問の主旨であります。 これに比すれば、遥か劣っていたところのこれまでの憲法すら、我が国民は十分に実行し得ない結果が、千古未曾有[せんこみぞう/かつてない]の国辱[こくじょく/国の恥。敗戦をさす]となって今日現れております。あの憲法が正当に行われておるならば、決して、今日のごとき大屈辱には遭遇せぬはずです。しかして、今回制定せられんとするところの憲法は、彼に比すれば非常に優れたものである。優れれば優れるほど、知識道徳の低い我が国人民においては、実行は困難であるということを覚悟しておかなければなりませぬ。 良い憲法さえ作れば国が良くなるなどという軽率な考えをもって、これに御賛成になりますると、非常な間違いである。憲法で国が救われるならば、世界に滅亡する国はありませぬ。良い憲法を作ることはまことに容易なことである。しかしこれを行うことは非常にむずかしい。この点を諸君に尋ねると同時に、私は顧[かえり]みて己[おのれ]にも尋ねなければならぬ程に心配を致しております。

(『尾崎咢堂全集 第十巻』)