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第47回 藤堂藩の武道・兵学 ―武藤・山名両文庫所蔵資料から―

藤堂藩における武道・兵学関係に関する資料の展示・紹介を行いました。(なお、資料から引用した文章は、読みやすいように現代仮名づかい等に直してあります。)

  • 展示期間 平成17年7月1日(金曜日) から 平成17年10月7日(金曜日)
  • 解説
  • 参考資料

参考資料一覧 (2005年12月現在)

書名 編著者 出版者 出版年
日本兵法史 上 石岡 久夫/著 雄山閣 1972年
日本兵法史 下 石岡 久夫/著 雄山閣 1972年
日本馬術史 第1巻 日本乗馬協会/編 大日本騎道会 1941年
日本馬術史 第2巻 日本乗馬協会/編 大日本騎道会 1940年
日本馬術史 第3巻 日本乗馬協会/編 大日本騎道会 1940年
日本馬術史 第4巻 日本乗馬協会/編 大日本騎道会 1940年
藤堂藩(津・久居)功臣年表 中村 勝利/編著 三重県郷土資料刊行会 1985年
宗国史 上巻 上野市古文献刊行会/編纂 同朋舎 1979年
御先手勤方覚書「元和先鋒録」 藤堂 高文/著,中村 勝利/校訂 三重県郷土資料刊行会 1976年
津市史 第3巻 梅原 三千,西田 重嗣/執筆 津市役所 1961年
藤堂姓諸家等家譜集 林 泉/編著 林 泉 1984年
甲陽軍鑑 上 磯貝 正義,服部 治則/校注 人物往来社 1965年
甲陽軍鑑 中 磯貝 正義,服部 治則/校注 人物往来社 1965年
甲陽軍鑑 下 磯貝 正義,服部 治則/校注 人物往来社 1966年
続群書類従 第24輯 上 塙 保己一/著,源 忠実/校 人物往来社 1932年
鈐録 荻生 徂徠/著 [出版者不明] 1727年
雲川荘文庫所蔵古地図目録並解題 小田 保夫/著 三重蒐友会 1941年
藤堂藩の年々記録 上 村林 正美/校訂 三重県郷土資料刊行会 1984年
藤堂藩の年々記録 下 村林 正美/校訂 三重県郷土資料刊行会 1985年
鳥羽商船高等専門学校紀要 創刊号 鳥羽商船高等専門学校 1979年
鳥羽商船高等専門学校紀要 第2号 鳥羽商船高等専門学校 1980年
鳥羽商船高等専門学校紀要 第3号 鳥羽商船高等専門学校 1981年
鳥羽商船高等専門学校紀要 第5号 鳥羽商船高等専門学校 1983年
息相巻 [出版者不明] (写本)
絵図巻 [出版者不明] (写本)
善御譜 [出版者不明] (写本)
手綱角乗集 [出版者不明] (写本)
手綱之哥書 [出版者不明] (写本)
手綱中極集 [出版者不明] (写本)
手綱明伝集 [出版者不明] (写本)
軍陣団之巻 [出版者不明] 1627年(写本)
安驥集抜書 [出版者不明] 1631年(写本)
日本古典偽書叢刊 第3巻 現代思潮新社 2004年

解説

三重県の地は、江戸時代には、伊勢・伊賀・志摩の3国と紀伊の国の一部から成り立っていました。行政の上では、津・紀州・桑名・鳥羽・亀山といった藩や、幕府・伊勢神宮などによって、治められていました。

江戸時代、この地方にはこれといった戦争はありませんでした。しかし、支配階級であった武士たちは、戦争に関する学習や訓練を怠りませんでした。それをうかがい知ることのできる資料が、当館に所蔵されています。当時、今の津市と伊賀市周辺を治めていたのは、藤堂藩でした。今回のミニ展示では、藤堂藩における、武道・兵学関係の資料を紹介します。(なお、資料から引用した文章は、読みやすいように現代仮名づかい等に直してあります。)

1 『絵図巻』(荒木流馬術)

下の絵には、2本の柱の間に立つ白い馬が描かれています。その馬の轡(くつわ)には、左右の柱から伸びている2本の紐が結ばれていて、何やら首にぐるりと巻かれているように見えます。この絵に付いている解説文には、以下のように書かれています。

百曲(ひゃっきょく/たくさんの悪い癖)の長鞭(むち)の事
口伝(くでん)に曰(いわ)く、諸々の曲を直す秘術なり。...幾度も鞭にて打ちて、狂わすれば、首絞まりて、馬懲(こ)るるなり。

縄による巧みな仕掛けを用いて馬に苦痛を与え、どんな悪い癖であっても直して従順な馬にしてしまう事のできる「秘術」、つまり秘密の方法」が、この「長鞭」である、というのです。そして、文章は次のように続きます。

この図は余(よ/ほか)の図録に出ざる口伝たりといえども、浅からざる御懇望によりこれを書き抜くものなり。...

この図は「口伝」、つまり、師から、許された弟子に限って、口から耳へ伝えるだけの教えであるけれども、たいへん熱心なお願いなので、特別に書きぬいたのが、この図である、というわけです。この他にも、調教の様子やその道具・方法などが、絵とともに記されています。

巻末には、この教えが「大坪家伝書」であって、寛正6年(1465年)以来、師から弟子へ次々に相伝されていったことが記されています。そして最終的には、寛永8年(1631年)、「谷吉兵衛」から「藤堂仁右衛門」に「進上」されています。「谷吉兵衛」は、藤堂藩の「功臣年表」の慶長19年(1614年)にその名が見えます。また、「藤堂仁右衛門」は、2代仁右衛門高経(たかつね)という人です。藩祖・藤堂高虎の妹婿にあたり、7千石の知行(ちぎょう/給料)がありました。

「谷吉兵衛」は「荒木志摩守」から相伝を受けています。つまりこれは、荒木流馬術の秘伝書と考える事ができます。巻末に「大坪一流口伝の事」とあるように、大坪流馬術の書と比べてみますと、内容は「ほぼ」同じです。それを後世、「荒木流」とされたのは、その少しの「違い」が重要だったからでしょう。「近世」という時代は、そのような時代だったのです。
「谷吉兵衛」から「藤堂仁右衛門」に「進上」された荒木流馬術の書は他に『息相巻』『手綱之歌書』等、全部で7点あり、すべて写本です。写した人も時期も、資料には記されていませんが、書体が同じであることから、すべて一人の人によって書き写されたものと思われます。絵はなかなか上手に描けており、かなり心得のあった人であったように思われます。

上の画像はともに『絵図巻』より:左「二物の事」 右「雲見の事」

2 『軍陣団(うちわ)之巻』

この資料は、昔の武将が合戦において、軍勢を指揮する際等に使用したといわれる「軍陣団(ぐんじんうちわ/軍配)」に関する秘伝書(写本)です。軍配とは、木製のうちわの事で、大相撲の行司さんの持っているものと同じようなものです。
最初に、「団(うちわ)」と「鞭(むち)」は、ともに神秘的な力を秘めている、と書いてあって、次に威力のある軍配の作り方・使い方を説いていきます。軍配の表には9つの梵字(ぼんじ/古代インドの文字)が書かれ、裏には、「卍(まんじ)」が黒々と描かれています。

この軍配とともに、呪文を唱え、あるいは空中に文字を書き、鳥の飛ぶ様子を観察したりすることで、戦いのタイミングをはかったり、軍勢を鼓舞したり、勝敗を占ったりする事ができる、と書いています。

〔日へんに門がまえ、かまえの中に縦に「義家」と書いて〕これを、うちわを持って日の最中〔太陽の真ん中〕に書きて、くつのもん〔ある呪文〕を二十一返唱うる間に、鳶(とび)、両方より二つ来たり、日の前にて組み合いて離れ行く事あらば、必ず味方に変わる〔敵に寝返る〕武士あり、と知るべし。合戦慎しむべきなり。天道〔天の示す道理〕疑いなし。

後半は、鞭の作り方と祈りの仕方が図入りで説明されています。
鞭の材質・長さ・図柄の他、祭壇の図と祈りの仕方、祈祷の際の呪文や印(手と指を使って示す特別な形)など、こと細かに詳しく説明されています(画像参照)。全体には、仏教の密教の教えを中心として、陰陽五行(いんようごぎょう)思想も加わった、呪術(じゅじゅつ/まじない)的な性格の強い内容となっています。

鳥の飛び方や数で、戦争の事を占ったり、まじないの道具を使って勝利を祈るというのは、現代に生きる私たちから見ると、ナンセンスなように思えます。戦国武将の武田信玄も、軍配術によって占われた「日取による勝敗には疑問を持って」(『日本兵法史』)いた、とされています。それではなぜこのような「軍配術」が学ばれ、伝えられていたのでしょうか。江戸中期の漢学者・荻生徂徠(おぎゅうそらい)は、その著書の中で次のように書いています。

...されどもその時分は、軍(いくさ)に馴(な)れたる名将勇士、世界に満ち満ちたれば、軍の仕様(しよう/戦い方)は朝夕の家常茶飯(かじょうさはん/あたりまえのようにする事)にて、習うに及ばぬ事なり。ただ、戦国の時は、生死のちまた(分かれ目/戦場)に出る事なれば、仏神を信ずる事、名将勇士とてもさる事なるゆえ(もっともな事なので)...(『鈐(けん)録』序)

つまり、「名将・勇士たちは、戦場という生死の境で死力を尽くすからこそ、仏や神のような超自然的な力にもすがったのだ」、というのです。それはまるで、スポーツ選手や棋士といった現代の勝負師たちもまた、よく「ゲンをかつぐ」というのに、似ているようです。

この資料は、寛永4年(1627年)、「森田和泉守重次」という人が、「藤堂仁右衛門(高経)」に与えた秘伝書の写しです。「森田和泉守重次」がどういう人だったのかはわかりません。また、写した人も時期も、資料には記されていません(画像参照)。

3 城縄張図(山鹿流)

この資料は、城を真上から見て描いた図で、一般に「縄張(なわばり)図」と呼ばれるものです。どこかに実際に存在する城ではなく、理想的な城を空想して描いたものと思われます。

資料には、包み紙が付いていて、表には「平山城 山ハ高房(たかふさ)縄張 平ハ久太夫(きゅうだゆう)縄ニ候(そうろう)」、裏に「水沼久太夫」と書いてあります。確かに図を見ると、中心部は山のように土地が盛り上がっているように書いてありますし、周りは平らで、堀のような所も書いてあります。この図は、二人による合作なのです。

「高房」は藤堂仁右衛門家5代・高房で、2代高経のひ孫にあたり、享保10年(1725年)に亡くなっています。また、「水沼久太夫」は、3代目久太夫通度と思われます。兵学者・山鹿素行(やまがそこう)直門であった2代目久太夫以降、水沼家は代々、藩の兵学教師をつとめ、津藩に山鹿流兵法を伝えました。

この資料は当館所蔵の武藤文庫の資料「古地図(雲川荘文庫所蔵)」の中の一つです。その中には、他の「城縄張図」が大小とりまぜて8点ありますが、すべて「山鹿流兵法学」によるものです。なお、これらの資料は『雲川荘文庫所蔵古地図目録並解題』の中で一部すでに紹介されています。また、その解説文は故武藤教授によるもので、原稿も武藤文庫の中にあります。