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第43回 本居春庭

本居春庭-失明を乗り越え国語学史上に不朽の業績を残した国学者-
本居宣長の長子で、国語学史上に不朽の業績を残した本居春庭に関する関連資料の展示・紹介を行いました。

  • 展示期間平成16年12月25日(土曜日)から平成17年4月2日(土曜日)
  • 解説
  • 参考資料

参考資料一覧(2004年12月現在)

書名 編著者 出版者 出版年
本居宣長事典 本居宣長記念館/編 東京堂出版 2001年
詞のやちまた 本居春庭/著 江島伊兵衛 1894年
古事記伝 本居宣長 永楽屋東四郎 1844年
本居宣長全集別巻1 本居宣長/著、大久保正,大野晋編/編集・校訂 筑摩書房 1976年
本居宣長全集別巻2 本居宣長/著、大久保正,大野晋編/編集・校訂 筑摩書房 1977年
本居宣長春庭大平内遠年譜遺墨集 本居宣長/著、本居清造/編 吉川弘文館 1935年
国語学史 馬淵和夫,出雲朝子/共著 笠間書院 1999年
国語学史 時枝誠記/〔著〕 岩波書店 1976年
詞通路 本居春庭/著 文海堂 1828年
国語学史 山田孝雄/著 宝文館 1943年
国学院雑誌12巻 国学院大学/編 第一書房 1977年
国語学史論叢 竹岡正夫/編 笠間書院 1982年
新修日本語の再生 島田昌彦 能登印刷出版部 1992年
三重の女の一生 中日新聞三重総局/編集 光書房 1981年
本居壹岐女の歌 出丸恒雄/編 光書房 1978年
三重・文学を歩く増補 藤田明/著 三重県良書出版会 1997年
『やちまた』ノート 西尾明澄/編 編集工房ノア 2000年
後鈴屋集 本居春庭/著 篠田伊十郎 1832年
松阪市史第7巻 松阪市史編さん委員会/編著 蒼人社 1980年
盲人歌集 佐佐木信綱/著 墨水書房 1943年
国歌評釈 佐々木信綱/〔著〕 人文社 1903年
本居春庭書簡 本居春庭/著 文政年間
直日霊 〔本居宣長/著〕 柏屋兵助 1825年
先賢遺芳 三重県 1915年

解説

高校等で「古典」を初めて学ぶ時、まず暗記させられるものの一つに「用言の活用表」があります。口語のそれと微妙に違う文語文法に、苦労させられた経験のある方も少なくないでしょう。

今からほぼ200年前、活用研究が今よりずっと未熟であった時代、一人の盲目の国学者が、今の活用表にほぼ近いものをいきなり世に示しました。それが、本居春庭であり、『詞のやちまた』という本です。春庭は、本居宣長の長男として生まれ、失明により家督は継げませんでしたが、父の学統は受け継ぎ、国語学史上に不朽の業績を残しました。

その名前は決して広く知られているとは言えませんが、彼の残した業績は、間接的にもせよ、今も日本中の若者たちによって学ばれ続けています。今回のミニ展示では、本居春庭を取り上げ、当館所蔵の関係資料をいくつか紹介したいと思います。

1失明以前

宣長の長子として宝暦13年(1763年)、松坂に生まれた春庭は、父の薫陶の下、早くからその才能を示し、国学者としての道を歩き始めました。私たちはこの時期の春庭に、『古事記伝』で触れてみることができます。というのは、『古事記伝』の初版の一部は、春庭の文字で書かれているからです。

宣長の大著『古事記伝』全44巻のうち、宣長の生前に刊行されたのは、『古事記伝上巻』、つまり神武天皇以前のいわゆる「神代」にあたる最初の17巻でした。当時の出版は、出版用の原稿(版下)を職人が版木に写して彫り、それを印刷して袋折にし綴じて本(版本)にしました。宣長は、版下を、『古事記』本文は自分で書き、注釈にあたる部分は春庭に書かせました。天明6年(1786年)から、眼を悪くする寛政2年(1790年)まで、春庭は、巻一から巻十四、巻十八から巻二十まで、全部で17巻の版下を書いています。五種の大きさの丁寧な楷書で書き分けられた『古事記伝』は、見るだけで美しい"工芸品"の趣きがあります。活字ではない版本のそれら『古事記伝』を開くと、宣長・春庭父子の息吹を感じ取ることができます。

(『古事記伝巻四』より『古事記』本文(右頁)と注(左頁):本文は宣長、注は春庭の筆による。)

2失明-結婚-「後鈴屋」

春庭の眼が悪くなり始めたのは寛政3年(1791年)、29歳の時でした。春庭は、名古屋・大坂などへ赴いて治療を受けましたが、寛政6年(1794)、32歳で失明しました。

『やちまた』(後掲)第3章に、春庭の眼の病気は「急性葡萄膜炎」ではなかったか、とする記述があります。もしそうなら、当時有効な治療法はなく、失明する他はなかった、とも記されています。

春庭は、京都へ針医の修行に行きます。そして、寛政9年、松坂で開業し、翌10年(1798年)、従姉妹の壱岐と結婚します。春庭36歳、壱岐18歳でした。同じ年、69歳の宣長は『古事記伝』を書き上げています。

寛政12年(1800年)、宣長は71歳で亡くなります。本居家の家督は弟子で養子となった大平(おおひら)が継ぎ、春庭は「本居家厄介」、つまり、今でいう「被扶養者」になりました。

宣長の死後、春庭は針医を廃業し、大平が和歌山に移った文化6年(1809年)には「後鈴屋社」を組織した、と『本居春庭』(後掲)に記されています。「鈴屋」は父・宣長の「号」でした。「後鈴屋」とは、「鈴屋」に続くもの、を意味します。つまりそれは、春庭の、父の興した"古学(いにしへまなび)"の道を継いでいく意思の表明だったのです。『本居春庭門人録』には、享和元年(1801年)、植松有信以下27名の最初の入門者の名が見えます。その後入門者は増え続け、同書には、全416名の名が、住所・入門年と共に載せられています。東北から九州に至るまで、春庭の死後もなお入門者がいたことを示すこの「門人録」は、春庭の学識が世に広く認められていた事の証明と言えます。

足立巻一著『やちまた』 山田勘蔵著『本居春庭』

3文法書:『詞のやちまた』・『詞の通路』

『詞のやちまた』上・下2冊は、文化5年(1808年)に出版されました。これは、「用言の活用」について書かれた本、今風にいうと「国文法研究書」です。

その内容は、動詞の主な4つの活用、「四段」「一段」「下二段」「中ニ段」と、サ行・カ行・ナ行の3つの「変格」、計7種の活用について、実例を挙げながら説明したものです。形容詞に関しては、本論では除いていますが、「上」の冒頭に、2つの活用(今でいう「ク活用」と「シク活用」)を指摘しています。

「一段」とは、今でいう「上一段活用」であり、「中二段」とは、「下二段活用」のことです。『詞のやちまた』には「下一段活用」は示されていませんでしたから、「一段」の活用は一つであり、わざわざ「上」と断る必要はありませんでした。また、命令形には触れておらず、変格活用を除いて、すべての活用は「ア段」から「エ段」までの4段で説明されていますので、「イ段」「ウ段」はその真ん中の二段にあたり、そこで活用する活用は、「中二段」、と名づけられています。そういった、用語の上での相違点の他に、「ラ行変格活用」を指摘していない点など、今から見れば欠点はありましたが、『詞のやちまた』には、ほぼ今の活用表と同じものが示されています。

『詞のやちまた』に先行する活用研究、例えば、父・宣長が『活用言の冊子』等で提示した活用分類が27であり、その門人鈴木朖(あきら)が『活語続断譜』で示した活用表が8段で示されていたことを思うと、この『詞のやちまた』が、当時いかに画期的な研究であったかを知ることができます。

春庭の著したもう一つの文法書は、春庭の亡くなった文政11年(1828年)に完成し、翌12年に出版された『詞の通路』です。この本は、自動詞と他動詞の区別を論じた点を除いて、『詞のやちまた』ほどには評価されてきませんでしたが、近年、構文論の視点から捉え直そうとする研究が現われる等、国語学史の中で再評価しようとする動きも見られるようになってきました。

それにしても、盲目となった春庭に、どうしてこのような歴史的な研究ができ、また、研究書を著すことができたのでしょうか。それには、本人の努力は勿論の事ながら、当然、周囲の人々の協力が必要でした。その間の事情は、作家たちの関心を引きました。『宣長と二人の女性』と『本居家の女たち』は、ともに春庭の妻壱岐を主人公にしています。前者は戦時中に出版され、今ではたいへん入手しにくい作品ですが、共に江戸時代の学者の妻を主人公にした、歴史小説では珍しい部類に入る作品と言えます。同様な題材で有名なものに、森鴎外著『安井夫人』がありますが、わが三重県にも、同じように小説化された人物がいて、ゆかりの作品があることを、ここに紹介させて頂きます。

(『詞のやちまた上』より「四種の活(はたらき)の図」)

4歌集:『後鈴屋集』

『後鈴屋集』は春庭の歌集です。前・後編各3冊、全6冊から成ります。

宣長をはじめ、本居家の人々は、男女とわず、和歌を詠みました。歌風は雅びな王朝風、現代の我々から見ると定型的で陳腐と見えるかも知れません。

佐佐木信綱著『盲人歌集』(昭和18年・1943年 墨水書房)に、『後鈴屋集』が取り上げられています。「序」に、この本の書かれた経緯が記されています。陸軍病院で傷痍軍人たちに『万葉集』と作歌を教え始めた著者が、戦争で失明した元兵士たちの姿に強く感銘を受け、この本は生まれました。前半には彼らの歌が、後半には、歴史上の盲人たちの歌が、著者の解説と共に載せられています。

『後鈴屋集』については15頁、歌は12首が取り上げられていますが、ここではその内の一首を、解説と共に紹介します。

若かりし昔の夢ぞなかなかに老(おい)のねざめの思(おもひ)なりける

若かつた時代の夢を見ると、却つて、老の身の夜半の寝覚(ねざめ)に、物思の種となることである。 老後の寂しい心境が窺はれる。若かつた時代には、楽しかつたことも、花やかなこともあつたであらう。それを夢に見て、老(おい)の寝覚に繰返して、いろいろと忍んでをると、却つて堪へ難い物思のもととなるものである。(中略) 単に老後の述懐とみても、感じのこもつた歌であるが、壮年にして失明した作者の境過を思いやつて此歌を味はふと、一層あはれが深い。信綱はこの歌を『国歌評釈』(明治36年・1903年人文社)でも取り上げています。歌人春庭の代表歌の一つと言えるでしょう。

本居春庭著『後鈴屋集』 佐佐木信綱著『盲人歌集』

5書簡

当館には、春庭の書簡が一通所蔵されています。

宛先は竹村平右衛門茂雄(明和6年・1769年から弘化元・1844年)です。彼は宣長の門人で、今の修善寺辺りの資産家でした。伊豆国国学の草分け的存在として、後には門人200人を擁した人です。差出人に「本居健亭」とありますが、「健亭」とは春庭の通称です。

|内容8 |内容7|内容6|内容5|内容4|内容3| |内容1・2|日付|年賀の挨拶|追書|宛名|

前半は年賀の挨拶で、定型的な文言が並んでいます。後半に、「要事」すなわち「用件」が書かれています。

内容1 前年に久しぶりの手紙を受け取り、元気で安心しました。

内容2 贈ってもらった海苔はおいしく頂きました。

内容3 諸国で国学が盛んになってきて喜ばしいというのは同感です。

内容4 『後鈴屋集』『門のおち葉』(門人たちの和歌を集めた歌集)は読んでくれましたか?

内容5 他にも著書を書きましたが、代筆によるもので、思わしくありません。

内容6 最近詠んだ歌をお見せしたいのですが、「急たより(急ぎの手紙)」なので書くことができません。

内容7 この手紙を持参するのは、相模国(今の神奈川県)の原久胤という人です。

内容8 まだ若いのですが歌は上手です。宜しくお願いします。委細は、原からお聞きください。

大体以上のような内容の手紙です。つまり、年賀状で、かつ、紹介状である手紙のようです。

この手紙が書かれた年は文面にありませんが、『門のおち葉』が文政元年(1818年)に出版された事から、文政元年(1818年)から、春庭の没年である同11年(1828年)の間に書かれた事は確かです。以下、もう少し詳しく見ていきます。

「7・8」に出てくる原久胤(寛政4年・1792年から弘化元・1844年)という人は、『本居春庭門人録』には文政7年(1824年)の項に載せられています。さらに、竹村茂雄についてですが、彼は文政8年(1825年)、大平から譲り受けた宣長自筆の『直日霊(なおびのみたま)』を、大平の序文をつけて、松坂で出版しています。

「直毘霊」は、『古事記伝巻一』で発表された、宣長の「古道論」を代表する論文です。その巻の版下は、それは、まだ眼を悪くする前の春庭が版下を書いて、『古事記伝 巻一』として寛政2年(1790年)に出版されたものでした。『直日霊』出版に際して、竹村が春庭の承認を求めたか、少なくとも断りは入れた事は、容易に想像できます。一方、この手紙は、上の「1」「3」「4」の内容などから、文政元年以降では初めて、両者が久しぶりに取り交わしたものであることがわかります。

以上の事から、この手紙の書かれたのは、文政7年(1824年)前後と、本稿では推定しておきます。

ところでこの手紙には、盲目であった春庭の心のうちを窺わせる箇所がいくつかあります。

「例之代筆故不文御察可下候」(追書の部分)

(いつものように代筆なので、文の不出来については事情をお察しください)

「其外著述物是彼御座候へとも人手にかけし事故思はしからす甚困入申候」(内容5)

(他にも著述はいろいろありますが、人に頼っての執筆・出版なので、思い通りの出来でなく、全く困ったものです)