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第46回 伊勢出身、官僚にして国学者・漢学者 米山宗臣と米山文庫

米山宗臣という人が所蔵した資料を、「米山文庫」として当館で所蔵しています。ほとんどは古い和本や漢籍で、なかには貴重な資料が数多くあります。

また、米山宗臣という人自身、ほとんど無名の人であり、各種の人物事典にも掲載されていませんが、彼は、かなりの学者でした。森鴎外に『北條霞亭(ほうじょうかてい)』という作品がありますが、その中に米山宗臣は3回登場します。ただ、筑摩書房版『森鴎外全集6』の注釈には「伝未詳(でんみしょう)」とあるだけです。

今回の展示では、より多くの人にその存在を知って頂くために、米山宗臣とその文庫についてご紹介します。

  • 展示期間 平成17年10月7日(金曜日) から 平成17年12月28日(水曜日)
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  • 展示資料

展示資料一覧

書名 編著者 出版者 出版年
萬代和歌集 11巻から13巻 〔書写者不明〕 〔書写年不明〕
霞亭渉筆 北条 霞亭/〔著〕 京都:梶川七郎兵衛 1810年
鐡凾心史 天,, 鄭思肖/〔撰〕 小林泰輔 1810年
雪柯先生印譜 米山 宗臣/〔編〕 〔1931年〕
平将門伝 〔書写者不明〕 〔書写年不明〕
前王廟陵記 上, 松下 見林/著

須原屋茂兵衛

沼木村郷土誌 2 〔三重県立図書館〕
※度会郡上野尋常高等小学校1914刊の複製
〔米山宗臣辞令等綴〕
箋注倭名類聚抄

狩谷 えき斎/著

李花集標注 〔宗良親王/著〕,米山 宗臣/著 古川出版部 1935年
  • 参考資料

参考資料一覧

書名 編著者 出版者 出版年
三重県の図書館(県別図書館案内シリーズ) 清水 正明/著 三一書房 1996年
個人文庫事典 2 中部・西日本編 日外アソシエーツ編集部/編 日外アソシエーツ 2005年
図書館みえ 第5号 三重県立図書館 1996年
明治官制辞典 朝倉 治彦/編 東京堂出版 1973年
〔南柯集 2〕 工學博士的場中追懐録 的場 幸雄/編集 小田清 1938年
明治初期における三重県の外語学校 西田 善男/著 三重県郷土資料刊行会 1971年
尾崎行雄伝 伊佐 秀雄/著 尾崎行雄伝刊行会 1952年
わたしたちの伊勢市 わたしたちの伊勢市編集委員会/編集 伊勢市教育委員会 2002年
三重県事業史 第九回関西府県聯合共進会三重県協賛会/著 第九回関西府県聯合共進会三重県協賛会 1907年
伊勢の百話 郡 敏子/著 古川書店 1983年
三重の祭 伊勢志摩編集室 1994年
県史あれこれ 1 三重県総務部学事文書課/編集 三重県総務部学事文書課 1990年
伊勢市史 伊勢市/編纂 大和学芸図書
※初版:1968刊
1982年
李花集 〔書写者不明〕 〔書写年不明〕
長慶院御歌 滝のしら玉 長慶院/〔著〕;谷森 善臣/〔編〕著 青山堂書房 1903年
国語文字史の研究 7 国語文字史研究会/編 和泉書院 2003年
鴎外全集 第17巻 森 林太郎 /著 岩波書店 1973年
三重先賢伝 浅野 松洞/著 東洋書院 1981年
三重県史談会々誌 別冊 大西 春海/解説 郷土出版社 1999年
伊勢郷土史草 第22号 伊勢郷土会 1984年
臨学名品大系 2 松田雪柯.九成宮醴泉名 〔松田 雪柯/著〕;桑原 呂翁,飯島 太千雄/編 西東書房 1987年
書論 第29号 特集 祀三公山碑・松田雪柯東都日記 書論編集室/編 書論研究会 1993年
雪柯松田先生行書 松田 雪柯/著
三重県史研究 第5号 三重県総務部学事文書課/編集 三重県 1989年
新編日本古典文学全集 41 将門記,陸奥話記,保元物語,平治物語 小学館 2002年

解説

米山宗臣という人が所蔵した本が、当館に「米山文庫」として所蔵されています。そのほとんどは古い和本や漢籍で、閲覧する人はめったにいないのが現状です。しかし、「米山文庫」には、貴重な資料が数多くあります。

また、米山宗臣という人自身、ほとんど無名の人であり、各種の人物事典にも掲載されていません 。しかし彼は、かなりの学者でした。森鴎外に『北條霞亭(ほうじょうかてい)』という作品がありますが、その中に米山宗臣は3回登場します。ただ、筑摩書房版『森鴎外全集6』の注釈には「伝未詳(でんみしょう)」、つまり「どこの誰だか、まだわかっていません」とあるだけです。

そこで、今回のミニ展示では、より多くの人にその存在を知って頂くために、米山宗臣とその文庫を取り上げてみました。

なお、「宗臣」は「むねおみ」とも読めますが、本稿では、一般的な読み方である「そうしん」とします。また、引用文は読みやすいように、仮名づかい等の表記も含めて現代風に直しました。

1 略歴

米山宗臣は本名を米山梧朗といい、文久3年(1863年)11月26日、父十二郎、母つやの長男として、伊勢国度会郡円座村(今の伊勢市円座町)で生まれました。米山家は代々、その地で大庄屋や戸長・助役等をつとめた家系でした。4代宗隆(むねたか)・9代宗持(むねもち)はそれぞれ、私財を投げうって新田を開き、あるいは用水を修理するなどして、地元のために尽くしました。千両を越す借金は、12代十二郎になってようやく返済できたのです。開墾された土地は「米山新田」と呼ばれ、その功績を讃える石碑が今なお地元に残っています。

宗臣は明治7年(1874年)、伊勢山田の宮崎学校に入学し、18歳になった明治15年(1882年)8月、東京府(今の東京都)会計課に就職します。その時の辞令が、米山文庫「米山宗臣辞令等綴」に収められています。(写真右)

翌16年(1883年)、大蔵省に転属し、国債局・書記局・総務局・預金局・主計局を経て、明治28年(1895年)には三重県へ出向、さらに翌29年(1896年)には名古屋税務管理局配属となります。明治30年(1897)、大蔵省から農商務省に転属し、明治40年(1907)からは兵庫県西灘村(今の神戸市)の「花筵(かえん:美しく色付けしたござ)検査場」で、大正12年(1923年)まで勤務します。

同じ年に退官し、郷里の伊勢に帰ってからは、伊勢神宮の歴史の編修に一年ほど関わりますが、その後の経歴は不明です。没年は昭和21年(1946年)、82年の生涯でした。

右の画像は、明治15年、米山宗臣が東京府に就職したときの辞令です

2 学者・米山宗臣

米山宗臣の著作としては、『李花集(りかしゅう)標注』(昭和10年(1935年)刊)があるだけです。これは、後醍醐天皇の皇子・宗良(むねよし/むねなが)親王の和歌集『李花集』に、宗臣が注釈を加えたものです。
宗臣の書いた「追記」には、自分の学問上の歩みを次のように書いています。

この『李花集標注』は、30年程前に自分が東京にいた頃、谷森善臣(たにもりよしおみ)先生に従って南朝の事を研究していたが、その当時、標注を加えたものである。先生が亡くなってからは漢籍にふけり、特に近年は元史を研究していたため、長年、原稿をしまいこんだままにしてあったが、...(原文は文語文のため、口語文に直しました。)

これによると宗臣は、前半生は国学、後半生は漢学を中心に研究していたことがわかります。

宗臣が「先師」と呼ぶ谷森善臣(1817年から1911年)は、幕末から明治にかけての国学者で、陵墓(天皇の墓)や歴史、特に南朝史を研究した人です。米山文庫には、宗臣が明治35年(1902年)から明治37年(1904年)にかけて、谷森の蔵書を毛筆で書き写した写本が数冊あります。また、谷森の著書『瀧のしら玉』(明治35年刊)の最後に、宗臣は文章を添えています。

その頃恐らく宗臣は、師である谷森の最も近くにいて、学んでいたものと思われます。ちなみに谷森善臣は本居宣長の弟子である伴信友(ばんのぶとも)に学んだ人でした。米山文庫の『増註 前王廟陵記』(安永7年(1778年)刊)には、4色に色分けされた端正な文字が、多くのページにびっしりと書き込まれています。茶色の文字は伴、青色は谷森、そして朱と黒の文字は米山宗臣による注釈を意味しています。師から弟子へと学問が受け継がれていった一筋の流れの跡を、色鮮やかに残している「形見(かたみ)」といえるでしょう。(右写真)

増註 前王廟陵記

漢学者としての米山宗臣の著書はありません。ただ、中国の元(げん)王朝(1280年から1368年)に関する資料を中心とした、膨大な蔵書と、肉筆の書き込みが残るだけです。毛筆で端正に、しかもほとんどが漢文で書かれたその書き込みの中には、米山宗臣の学問がぎっしりと詰まっています。当館は、それらを集めて『米山宗臣文集』10巻にまとめました(右写真)。

その中に、『霞亭渉筆』という本に綴じ込まれた書き込みがありあります。そこには、次に述べる、文豪・森鴎外との思い出が、漢文で書かれています。

3 森鴎外と米山宗臣

森鴎外晩年の作品『北條霞亭』は、江戸時代末期の伊勢の漢学者・北條霞亭が残した手紙の束を読み解きながら、その生涯をたどり、人物像に迫っていく小説です。

小説は全164章から成り、そのうち35、36、47章に、米山宗臣が登場します。但し、本人が実際に顔を出すのではなく、手紙や手記の形で登場します。

...敬軒(けいけん)の通称は上に引いた書によれば久良助(くらすけ)なるがごとくである。あるいは別に善五(ぜんご)の称があったか。米山宗臣さんの記には敬軒が「善弼(ぜんひつ)」と称したといってある。なお考うべきである。...(その三十五)
...ついで三村米山の二氏もまた維祺(いき)の志毛井氏(しもいうじ)なるを報じた。なお考うべきである。...(その三十六)
...又米山氏記を参考するに、...なお考うべきである。...(その四十七)

鴎外は『北條霞亭』を書くために、多くの人に資料を見せてもらったり、意見を聞いたりしています。米山宗臣も、その一人でした。
『北條霞亭』の新聞への連載が始まったのは大正6年(1917年)10月26日でしたが、同年11月23日付の鴎外の手紙に、「...しかるに米山梧郎君の説に...」という一節があります。この頃に、鴎外と宗臣は手紙のやりとりをしていた事になります。
鴎外が宗臣をどのようにして知ったのか、確かなことは分かりません。ただ、宗臣を鴎外に紹介したのは、三村清三郎(竹清)だった可能性があります。
三村竹清(1976年から1953年)は、民間の学者で、明治末から大正初めにかけて津市に住み、本県の郷土歴史研究の草分け的存在である「三重県史談会」の設立に関わった人物です。上に引用した中にも、「三村米山の二氏」とあります。また、大正6年11月4日付の鴎外の手紙に、次のような一節があります。

...三村清三郎君、頃日(けいじつ:ちかごろ)、当方より訪問、色々うかがい候(そうろう:いろいろ尋ねました)。伊勢のことは大分くわしき人と存ぜられ候(おもわれます)。しかし、世に聞こえぬ学者、はなはだ多く、なかなか知り尽くされぬようにこれあり候(知り尽くすことができそうにありません)...(『鴎外全集 第36巻』)

「世に聞こえぬ学者はなはだ多く」と鴎外が書いているのは、三村竹清から「世間に知られていない学者」の名を多く聞いた事を示すものでしょう。その中に、米山宗臣も含まれていたのではないでしょうか。北條霞亭について確かめたい鴎外は、伊勢の漢学に詳しい人物を探していたはずで、その結果、三村竹清から米山宗臣にたどりついたのではないか、と思われます。

宗臣は大正15年(1926年)、当時の事を振り返って次のように書いています。

今は亡き友人である森鴎外が『北條霞亭』を書いていた時、何度か私に手紙で質問してきたのは、私が伊勢出身であったからだと思うが、当時の私はあまり知識もなく、わずか2・3点を教えることができただけだった...(『米山宗臣文集 巻乃壱』所収「霞亭渉筆」。原文は漢文のため、口語文に直しました。)

鴎外の弟・森潤三郎は、宗臣の鴎外宛の手紙を、「校勘記」という文章の中で紹介しています(『鴎外全集 第18巻』)。鴎外自身も、大正10年(1921)4月30日の日記に、

三十日。水。晴。参館。山田孝雄、米山宗臣至。山田珠樹来別。(『鴎外全集 第36巻』)

と書いています。鴎外と宗臣が直接会ったことを示す、唯一の記録です。

(訂正)...と、上のように当初は書いたのですが、展示を始めて10日ほどして、京都府のある方より、それ以前に二人が面会した記録があることをご教示いただきました。それは、『委蛇録』と題された森鴎外の日記の、大正7年(1918年)3月10日の次の記事です。

十日。日。朝陰。暮風雨。米山宗臣始至。字子允。号言川南。伊勢人。居神戸市。...(『鴎外全集 第35巻』)

今回ご指摘いただきましたT様に感謝の意を表しますと共に、米山宗臣と森鴎外が直接会った記録は1度でなく、大正7年と10年の2度だった事を、改めてここに記します。

米山宗臣と米山文庫 解説 米山文庫の逸品

米山文庫については、図書館や個人文庫を取り上げた本の中で、「元王朝に関する貴重な歴史書があります」というふうに紹介されてきました。ここでは、それ以外の貴重な資料や、三重県ゆかりの資料について紹介するとともに、それらの資料にかける宗臣の思いや、学者としての素顔もお伝えできたらと思います。

松田雪柯(まつだせっか:1823年から1881年 伊勢の書家)の行書と印譜、旧蔵書

『雪柯松田先生行書』は中国・明代初め頃の詩人・高啓(こうけい:1336年から1374年)の漢詩3編を行書で書いた折本です。宗臣はそれを罫紙に写し、明治2年、47歳の時の作品であるとしています。

『(松)雪柯先生印譜』については、宗臣は序文で、「雪柯先生が亡くなった後、遺族の徹郎氏に依頼して、家に残っていた印を押してもらい、それを本にした。その中には、雪柯の父である松田適斎の印譜も混ざっているが、印影から区別はつくから、詳しい内容については別紙「訳文」を見てもらいたい。」と書いています(下写真)。印影の横には宗臣の書いた、印の作者の名が書きこまれています。別紙「訳文」が、本に挟まれています(下写真)。

その他、『校定孝経』と『砲卦』という本には、雪柯の蔵書印「東凹書庫」が押されています。

『(松)雪柯先生印譜』

『(松)雪柯先生印譜』訳文

村上島之允(むらかみしまのじょう:1760年から1808年)の写本『将門記』

村上島之允は伊勢の人で、今から200年以上前に、幕府の役人として、蝦夷地(今の北海道・千島列島)を探検した人です。この写本は、名古屋真福寺にある国宝「真福寺本『将門記』」の古写本で、奥書に「寛政九年夏五月 秦檍丸(はたのあわきまろ:村上島之允のペンネーム)」とあります。虫食い跡まで丹念に写されています。ただ、この本が島之允の直筆写本かどうかは不明です(右写真)。(なお、当館の目録にある書名『平将門伝』は、資料の表紙に書かれた題をそのまま載せています。)

『将門記』

狩谷[えき]斎(かりやえきさい:1775年から1835年 漢学者 注1)の写本『箋注倭名類聚抄(せんちゅうわみょうりゅじゅうしょう 注2)』
注1:[えき]は木偏に「液体」の「液」のつくり
注2:源順(みなもとのしたがう:911年から983年 歌人)の書いた辞書『倭名類聚抄』の注釈本

この本について宗臣は、次のように書いています。

...この狩谷[えき]斎先生の『箋注倭名類聚抄』の欠本二冊は、以前東京にいた頃に、本郷の古書店で買った。政府印刷局で出版された本には、先生の得意とされた「校譌(こうが)・異体字弁(ともに本文の校正)」が省略されたが、この本にはそれが載っている原本であり、とても嬉しい。ただ、残りの8冊がどこへ行ったのか分からず残念だ...(『米山宗臣文集 巻乃四』所収。原文は古文のため、口語文に直しました。)


『箋注倭名類聚抄』

村田春海(むらたはるみ:1746年から1811年 国学者)の写本『萬代和歌集(注3) 十一 十二 十三』
注3:まんだいわかしゅう:鎌倉時代に編まれた和歌集

この本について宗臣は、次のように書いています。

...それぞれ違う人によって書かれている5冊の内、この冊は村田春海の写本で、実に優雅な筆づかいだ。以前に小杉椙邨(こすぎすぎむら:1834年から1910年 国文学者)氏に見せたところ、一目で村田春海の字であるとされ、随分感心してみえた
...春海は頼まれて書を書くことが少ない人だったから、作品はたいへん少なく、紙切れのようなものまで世間では珍しがられるのに、これは3巻まるごと春海の書で、しかも春海の名が書かれていない、世にも珍しい名品だ。なんとか印刷して大勢の人に味わってほしく思っているが、まだそれを果たせず、しばらくはしまっておく事にする。(『萬代和歌集 十一十二十三』所収。原文は漢文のため、口語文に直しました。)